海蔵寺|遊行寺二祖他阿真教上人が創建
海蔵寺の概要
時宗の海蔵寺は、深広山無涯院と号します。海蔵寺は、藤沢遊行寺二祖他阿真教上人が当地に永仁6年(1298)創建、江戸時代には数多くの無縁仏を供養していたことから投込寺とも呼ばれたといいます。
山号 | 深広山 |
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院号 | 無涯院 |
寺号 | 海蔵寺 |
住所 | 品川区南品川4-4-2 |
本尊 | 阿弥陀如来立像 |
宗派 | 時宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
海蔵寺の縁起
海蔵寺は、藤沢遊行寺二祖他阿真教上人が当地に永仁6年(1298)創建、江戸時代には数多くの無縁仏を供養していたことから投込寺とも呼ばれたといいます。
新編武蔵風土記稿による海蔵寺の縁起
(南品川宿)海蔵寺
除地一段八畝三歩、年貢地五段二畝二十四歩、小名南馬場町の南側にあり、深廣山無涯院と號す、時宗藤澤清浄光寺末、永仁六年遊行二組他阿真教起立す、真教は元應元年正月二十七日入滅す、年八十三、入戒十四、按ずるに妙國寺永享六年の文書に荒井道場と載、恐らくは當寺なるべし、本尊弥陀立像長三尺恵心作。
稲荷社。門を入て右にあり小祠。
(中略)
門前町屋。表通は間口四十五間裏通十四間、横町西側三十七間東側三十四間、歩数合て千五百餘、延享三年より町方の支配となれり。(新編武蔵風土記稿より)
品川区の文化財による海蔵寺の縁起
永仁6年(1298)藤沢遊行寺二祖他阿真教上人が、宗祖一遍上人の教えをつぎ、念仏をすすめて諸国を巡化の途中、たまたま当地にとどまること三年間、多くの衆生を教化された時に、妙覚庵運心称する妙好人があり、上人の徳風に帰依され祖先伝来の三尊仏を上人に寄進し、伽藍を結構して運心の寄附の三尊仏を安置したのが現在の本尊である。
江戸時代に入り、品川宿がおかれ、ここで死亡した人達も葬られたのである。元禄4年(1691)から明和2年に至るまでその数7万余人といわれている。宝永5年(1708)7月8日土地の有力な信者の集まりがこれを改葬し、その骨を集め、墳墓をきずきその上に観音像を安置したのが巷間に伝えている頭痛塚である。頭痛を辞めるものがその平癒祈願をすると利益があるといって、香煙の耐えたことがないといわれている。また当時鈴ヶ森刑場で処刑された人や、品川遊郭に於いて死亡した遊女等も葬られている。(品川区の文化財より)
海蔵寺所蔵の文化財
- 海蔵寺無縁供養塔群(品川区指定文化財)
海蔵寺無縁供養塔群
かつて、品川にあった溜牢(牢屋)でなくなった人々の遺骨を集めて、宝永5年(1708)に築かれた塚である。お参りをすると頭痛が治るということから頭痛塚と呼ばれた。この塚に、天保の大飢饉(1833-40頃)の折になくなった215人を祀る215人塚も合葬され、更に品川宿の娼妓の大位牌や、鈴ヶ森処刑場で処刑された人の首の一部も埋葬されて、総称を首塚と名付けられた。
この首塚の他に、慶応元年(1865)の造立の津波溺死者供養塔や、大正4年(1915)に造立の京浜鉄道轢死者供養塔、昭和7年(1932)に造立の関東大震火災横死者供養塔などがある。いずれも無縁の横死者の霊を供養するもので、本寺は品川の投込寺であったことがよくわかる。
海蔵寺の周辺図