豊盛山一心寺|江戸三十三観音霊場、東海道七福神の寿老人
一心寺の概要
真言宗智山派寺院の一心寺は、豊盛山延命院と号します。一心寺は、大老井伊直弼の治世に、山村一心が成田山不動明王を安政2年(1854)に模刻、信奉者が増加し、文久元年(1861)洲崎辨天境内に堂宇を建立、明治2年神仏分離により北品川宿へ移設、明治18年当地に堂宇を建立したといいます。弘道僧正の代に寺号を許可され豊盛山延命院一心寺と号し、昭和61年には東海道七福神の寿老人に指定されています。
山号 | 豊盛山 |
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院号 | 延命院 |
寺号 | 一心寺 |
住所 | 品川区北品川2-4-18 |
本尊 | 不動明王 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 江戸三十三観音霊場30番札所、東海道七福神の寿老人 |
一心寺の縁起
一心寺は、大老井伊直弼の治世に、山村一心が成田山不動明王を安政2年(1854)に模刻、信奉者が増加し、文久元年(1861)洲崎辨天境内に堂宇を建立、明治2年神仏分離により北品川宿へ移設、明治18年当地に堂宇を建立したといいます。弘道僧正の代に寺号を許可され豊盛山延命院一心寺と号し、昭和61年には東海道七福神の寿老人に指定されています。
「品川町史」による一心寺の縁起
一心寺之由来
安政二年(西暦一八五四年)日本開国之機運高まり国運の境目に接面し時、大老職にある井伊直弼公が縁起により江戸台場の沿革東海道第一の品川宿にて鎮護日本、開国条約、宿場町民の繁栄、安泰の願えとの霊験を悟り開山され、時の町民代表一同に倣って建立されたと伝えられております。
当山は昭和の御代になり中興の祖とも云うべき僧正弘道大和尚に依り、豊盛山延命院一心寺と云う寺號を拝受し成田山分身の不動明王を本尊とし延命、商売の護りとして今日に続いております。
昭和六十一年より東海七福神の寿老人(寿命)の指定寺院に認定されしことは誠に意義深く また、本堂の造りは京都本願寺の宮大工伊藤氏に依るものと称されており、 内陣には両大師、中国渡来之二仏、無指定の飛鳥仏と称する仏像、光雲作観音像、寿老人等が祀られております。
一心寺 僧正照幸代(境内掲示」)
「品川町史」による一心寺の縁起
不動堂
所在、北品川宿十二番地。山號、成田山。本山、小石川區常泉院受持。本尊、不動明王。由緒、安政二年山村一心、成田山新勝寺本尊不動明王を模刻し信念せしが、次第に同行の信者増加せるを以て、文久元年洲崎なる辨天の境内へ堂宇を建立安置せしも、明治二年神佛分離の際、十二月廿三日北品川宿八十九番地、養願寺境内へ轉設し、十七年十一月二十六日類焼せるを以て、十八年五月現在の位置に堂宇を建設して移轉す。本堂、間口貮間・奥行三間半、庫裡、十二坪。境内八十二坪四合一勺。(東京府社寺局台帳ニヨル)(「品川町史」)
一心寺の周辺図