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洲崎神社|江東区木場の神社、旧村社、津波警告・波除碑

洲崎神社の概要

洲崎神社は、江東区木場にある神社です。洲崎神社は、桂昌院(徳川五大将軍綱吉公の生母)が崇敬した江戸城中紅葉山の弁財天を、護持院(現護国寺)隆力の進言により元禄13(1700)当地に遷座して創建、当地が海岸に浮かぶ弁財天であったことから、文人墨客の参詣を集めていたといいます。明治5年村社に列格、昭和43年に現社殿を造営しています。また、寛政3年(1791)に押し寄せた津波により、当地周辺は多数の死者行方不明者を出し、江戸幕府は当地を東北、平久橋の袂を西南とした一帯を買い上げ、居住禁止区域とした際の波除碑(津波警告の碑)が残されており、東京都指定文化財となっています。

洲崎神社
洲崎神社の概要
社号 洲崎神社
祭神 市杵島比売命
相殿 -
境内社 豊川稲荷神社、於六稲荷神社、弁天社
祭日 例大祭8月3日、酉の市11月酉の日
住所 江東区木場6-13-13
備考 -



洲崎神社の由緒

洲崎神社は、桂昌院(徳川五大将軍綱吉公の生母)が崇敬した江戸城中紅葉山の弁財天を、護持院(現護国寺)隆力の進言により元禄13(1700)当地に遷座して創建、当地が海岸に浮かぶ弁財天であったことから、文人墨客の参詣を集めていたといいます。明治5年村社に列格、昭和43年に現社殿を造営しています。

境内掲示による洲崎神社の由緒

州崎神社神社由緒
当州崎神社神社は元弁天社と称し厳島神社の御分霊を祭神市杵島比売命を斎祀しております。創立は徳川五大将軍綱吉公の生母桂昌院の守り神として崇敬するところとなり、元禄13年、江戸城中紅葉山より此の地に遷して宮居を建立してより代々徳川家の守護神となっていた。当時は海岸にして絶景、珠に弥生の潮時には城下の貴賎袖を連ねて真砂の蛤を捜り楼船を浮べて妓婦の絃歌に興を催すとあり、文人墨客杖を引くという絶佳な所であったという。浮弁天の名の如く海中の島に祀られてありました。
明治5年御由緒により村社に列せられ世間より崇敬厚かった。大正の震災、昭和の戦災に社殿は焼失されたが弘法大師作の御神体は幸にして難を免れ、当時は仮社殿に奉斎して居りましたが昭和43年現在の社殿を造営し斎祀して現在に至っております。(境内掲示より)

「江東区の民俗深川編」による洲崎神社の由緒

元弁天社と称し、本所深川の埋め立て事業が進む元禄一三年(一七〇〇)、護持院隆光の力で、江戸城中紅葉山にあった弘法大師作と伝えられる桂昌院の守り本尊をここに祀り、洲崎弁天社と称したことにはじまる。社殿の創建には深川海面築地普請奉行の深津八郎右衛門があたったという(「洲崎神社」)。隆光は新義真言宗の僧侶で、南都や醍醐寺で学んだ後、徳川綱吉の命を受けて、知足院に入住し、江戸城鎮護の祈祷をし、綱吉と生母桂昌院の信任を得て、権僧正に昇る。知足院を神田橋外に移し、のちに護持院と改め、伽藍を拡張し、綱吉に生類憐れみの令を進言するなど権勢を振るい、熱田神宮・室生寺・根来寺など全国の寺社の復興に努めた僧侶である(『日本仏教人名辞典』)。護持院は明治初めに音羽の護国寺と統合された。
洲崎弁天社は明治に入ると洲崎神社と改称された。(「江東区の民俗深川編」より)


洲崎神社所蔵の文化財

  • 波除碑(東京都指定有形文化財)
  • 川連虎一郎碑(江東区登録文化財)

波除碑

寛政3年(1791)9月4日、深川洲崎一帯に襲来した高潮によって付近の家屋がことごとく流されて多数の死者、行方不明者が出た。
幕府はこの災害を重視して洲崎弁天社から西のあたり一帯の東西285間、南北30余間、総坪数5,467坪(約1万8000平方メートル)を買い上げて空き地としこれより海側に人が住むことを禁じた。そして空地の東北地点(洲崎神社)と西南地点(平久橋の袂)に波除碑を建てた。当時の碑は地上6尺、角1尺であったという。
石碑は砂岩で脆く、震災と戦災によって破損が著しい。現在地は原位置から若干移動しているものと思われる。
建設は寛政6年(1794)頃で碑文は屋代弘賢によるものと言われている。(東京都教育委員会掲示より)(境内掲示より)

江戸時代中期の洲崎神社周辺図

江戸時代中期の洲崎神社周辺図です(元図は木場親水公園図より)。赤線が首都高速道路公団道路、水色線が東西線路線、黒線が江東区境界です。

江戸時代中期の洲崎神社周辺図

洲崎神社の周辺図


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