高福院|御府内八十八ヶ所霊場
高福院の概要
高野山真言宗寺院の高福院は、永峯山瑠璃光寺と号します。高福院は、もと高野山金剛峰寺の塔頭として創建、弁財天の高福に因んで寺名が付けられたと伝えられます。江戸時代に入り、当地近くに松平讃岐守侯下屋敷が造営され、松平讃岐守侯が、讃岐の偉人弘法大師にゆかりのある寺建立を願い、高野山に招請し、高福院を当地へ引寺、慶安元年(1648)に阿闍梨頼順が開山、高野山東京在番所(高野山東京別院)の控寺だったといいます。隣接している誕生八幡神社のもと別当寺、御府内八十八ヶ所霊場4番札所です。
山号 | 永峯山 |
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院号 | 高福院 |
寺号 | 瑠璃光寺 |
住所 | 品川区上大崎2-13-36 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
宗派 | 高野山真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 誕生八幡神社の旧別当寺、御府内八十八ヶ所霊場4番札所 |
高福院の縁起
高福院は、もと高野山金剛峰寺の塔頭として創建、弁財天の高福に因んで寺名が付けられたと伝えられます。江戸時代に入り、当地近くに松平讃岐守侯下屋敷が造営され、松平讃岐守侯が、讃岐の偉人弘法大師にゆかりのある寺建立を願い、高野山に招請し、高福院を当地へ引寺、慶安元年(1648)に阿闍梨頼順が開山、高野山東京在番所(高野山東京別院)の控寺だったといいます。
境内掲示による高福院の縁起
高野山真言宗
永峯山瑠璃光寺 高福院略縁起
当院は、もと高野山金剛峰寺の塔頭の一院でありました。弘法大師は高野山を開創されたさい、鎮守として各処に弁天さまを祀られました。高野山が疲弊して資糧が乏しくなったとき、弁天さまが宝舟を引いてきて山徒を救い給うたことから、その高福にちなんで高福院が建立されたということです。高野山の古図を見ると、現在の金剛峰寺の右隣に高福院の名が見えます。高野山の中心に在ったことから、由緒寺院であったことが偲ばれます。
現在の品川区上大崎のあたりは江戸時代、永峯六軒茶屋町という町名でした。白金方面から当地にいたる目黒通りは、馬の背のようにだらだらと長い尾根の道で、それで永峯と言われ、また目黒不動尊への参詣道にあたることから茶屋が六軒あったので、そのように呼ばれたと言われています。
寛永(一六二四-四四)のころ、松平讃岐守侯は、当地に下屋敷(現在の自然教育園、庭園美術館)を造営されるにあたり讃岐(香川県)が生んだ偉人である弘法大師の御寺を建立せんとして高野山に要請しました。そこで高祖院の良尊和尚が、高福院の寺名と船引の弁天さまを奉持して東上したのが当院の起源であると伝えられております。
開創時代の当院は、当時江戸に二ヵ所あった高野山の在番所の控寺として、遷化された僧侶方の菩提所として栄えたということであります。けれども明和九年(一七七二)江戸市中を焼き払った行人坂の大火のために、一切が灰燼に帰してしまったのでありました。
現在の本堂は、天保の改革を断行した水野越前守忠邦侯が千駄ヶ谷の穂田の屋敷内に建立し、自ら勤念を凝らしておられた、今に残る棟木によれば天保十五年(一八四四)第十三世惠玉和尚が拝領して移築したお堂であります。安政の大地震、関東大震災、今次大戦に良く耐えて今日に至っております。
明治の廃仏毀釈の時代、当院は疲弊いたしました。しかし第十四世浄見和尚、第十五世浄識和尚の努力で再興したのであります。殊に浄識和尚は、目白僧園の雲照律師に提撕を受け、お大師さまを背中に負うて托鉢しつつ布教し、多くの人々が檀家に加はったということであります。第十六世浄染和尚は、昭和十五年(一九四〇)ロスアンゼルスの高野山米国別院建立をはじめ数多の功績を残されましたが、昭和二十年招集された戦地で倒れました。
昭和五十一年(一九七六)檀家の彫刻家村田歌野氏は、両親の菩提のために白衣観世音菩薩を制作し、寄進されました。そこで、檀家で文化勲章を受章した青山杉雨氏に萬霊供養塔の文字揮毫をお願いしました。今日、白衣観世音菩薩萬霊供養塔は、後継者の無い方の納骨、供養のため、多くの方々のお役に立っております。
昭和五十八年(一九八三)弘法大師御入定千百五十年御遺忌を記念して二十名の檀信徒とともに、百四十年ぶりに本堂を改修し、大法要を執行しました。
平成五年(一九九三)大正三年(一九一四)建立の客殿を大改修、更には庫裡を新築し、今次大戦で倒れた第十六世浄染和尚をはじめ檀信徒英霊の五十回忌法要を厳修いたしました。
平成十三年(二〇〇一)以来、墓地の新設、改修に着手し、多くの方々に新しい檀家に加はって頂き、また加はって頂きつつあります。
当山は、高野山に於ける開創以来壱千年、江戸出府以来、三百八十年の歴史を閲したことになります。(境内掲示より)
高福院の周辺図
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