金剛山顕性寺|御府内八十八ヶ所霊場
顕性寺の概要
真言宗豊山派寺院の顕性寺は、金剛山蓮華院と号します。顕性寺は、法印賢秀(承応2年没)が牛込門外に慶長16年(1611)創建、江戸城外堀建造に伴い寛永11年(1634)当地へ移転したといいます。御府内八十八ヶ所霊場44番札所です。
山号 | 金剛山 |
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院号 | 蓮華院 |
寺号 | 顕性寺 |
住所 | 新宿区須賀町13-5 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 御府内八十八ヶ所霊場44番札所 |
顕性寺の縁起
顕性寺は、法印賢秀(承応2年没)が牛込門外に慶長16年(1611)創建、江戸城外堀建造に伴い寛永11年(1634)当地へ移転したといいます。
「四谷區史」による顕性寺の縁起
金剛山蓮花院顯性寺は中野村寶仙寺末の新義眞言宗で、四谷南寺町にある。境内古跡拝領地百六拾坪餘、慶長十六年辛亥牛込門外に起立し、外濠掘鑿の用地として公収されて、寛永十一年甲戌此地に移轉した。其後享保十年二月の青山の出火に類焼して、文政當時は本建築に至らなかつたことが其書上に見える。(「四谷區史」より)
四谷南寺町界隈による顕性寺の縁起
新義真言宗にして、金剛山蓮華院という。元は中野宝仙寺の末寺であったが、今は音羽護国寺末となっている。
文政書上によると、慶長16年牛込御門外に起立されたが、外濠堀削のため用地として召上げられ、公収されて寛永11年現地に移転させられた。その後享保10年(1725)2月青山の出火で焼失し、文政当時の書上には大建築に至らないとある。この間約100年、ほとんど仮堂であったらしい。この事は寺の盛衰を語るべきものと想われる。
開山は法印賢秀(承応2年寂)で、開山当時の法流は不明とあるが、法院号を受けているから真言系に間違いはあるまい。
中興は十世秀延(宝暦2年寂)。元文3年伝法院を伝えて今日に至るという。
墓にはこれという名墓はないが、過去帳は天和2年以来のものが現存している。
この寺は、御府内八十八ヶ所霊場の内の44番に当っている。寺門を入って左側にその八十八ヶ所の道しるべ石が建っている。棹石文字面約1m余で正面には
御府内八十八ヶ所 南無大師遍照金剛 第四十四番
右側面は
文久ニ壬戌年八月 伊予国大覚院写 是ヨリ右江十三丁 千駄ヶ谷聖輪寺 是ヨリ左江ニ丁 南寺町 文殊院
これは顕性寺すじ向いの、南寺町通りの角に立っていたものである。文殊院は今はなくなっているが、旧の場所は宗福寺の先隣、今一燈寺の辺りに在って、御府内第二十六番である。明治9年の八十八ヶ所には文殊院は既に無く、恐らく維新に廃寺になったものと思う。二十六番は荏原大井村の来福寺に移されてしまった。
千駄ヶ谷聖輪寺は、千駄ヶ谷観音ともいい、御府内の十番である。(四谷南寺町界隈より)
顕性寺の周辺図