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長命寺|墨田区向島にある天台宗寺院、隅田川七福神の弁財天

長命寺の概要

天台宗寺院の長命寺は、宝樹山遍照院と号します。長命寺の創建年代は不詳ですが、宝寿山常泉寺と号していたといいます。寛永年間に三代将軍家光が鷹狩りを行った際、急に病を催し、ここで休息をとり、境内の井戸水で薬を服用したところ、たちまち快癒したので、長命水の名を捧げられると共に、長命寺と呼ばれるようになったといいます。隅田川七福神の弁財天、東京三十三観音霊場32番札所です。

長命寺
長命寺の概要
山号 宝樹山
院号 遍照院
寺号 長命寺
住所 墨田区向島5-4-4
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 隅田川七福神の弁財天、東京三十三観音霊場32番



長命寺の縁起

長命寺の創建年代は不詳ですが、宝寿山常泉寺と号していたといいます。寛永年間に三代将軍家光が鷹狩りを行った際、急に病を催し、ここで休息をとり、境内の井戸水で薬を服用したところ、たちまち快癒したので、長命水の名を捧げられると共に、長命寺と呼ばれるようになったといいます。

「すみだの史跡文化財めぐり」による長命寺の縁起

天台宗延暦寺末で、古くは宝寿山常泉寺と号していたそうですが、創建年代等は不明です。ただ、寛永(1624-1643)のころ、三代将軍家光がこの辺りに鷹狩に来た時、急に腹痛をおこしましたが、当時の住職が加持した庭の井の水で薬を服用したところ痛みが治まったので、長命寺の寺号を与えたといいます。一説では家光ではなく家康であるとしています。やがて井も長命水と名付けられました。
古くは境内に弁天堂や芭蕉堂がありました。芭蕉堂は宝暦年間(1751-1764)に俳人衹徳が建てた自在庵が始まりで、後に能阿によって再興され、長命寺の芭蕉堂と通称され、芭蕉の木像(現存)を安置していました。芭蕉堂は何回か火災にあい、大震災以後は復旧していません。
本堂に安置する弁財天は、隅田川七福神の一つに数えられ、本堂前に小池道子書の「弁財天」の碑があります。(「すみだの史跡文化財めぐり」より)

新編武蔵風土記稿による長命寺の縁起

長命寺
天台宗東叡山末、寶寿山扁照院と号す。本尊阿弥陀脇士に観音勢至を置。過去帳に住僧宗泉慶安二年十一月七日示寂とあり。境内弁天の縁起に、寛永の末大猶院殿御放高の時俄に御異例にて当寺に入御ありけるに、住僧専海弁才天に祈願をこめ則御手洗の般若水を汲みて御供の士中根壱岐守を以て捧げ奉りしに、御心地さはやかにならせたまひければ御快気の程を祝せられ、寶樹山常泉寺の旧号を改て今の寺山号を賜ひしと云。是によれば専海は寛永の頃の住僧にして宗泉より先代なるべし。
精大明神社。神体金幣にて光成卿の霊を祭る。蹴鞠の神なりとのみ云傳ふ。光成卿とはいかなる人にや、蹴鞠の宗匠難波飛鳥井両家には聞えさる人なり。按に諸神記に中御門西洞院東頗滋野井小社三座是蹴鞠神也。此地大納言成通卿旧跡とあり。成通卿は蹴鞠の名人にて凡人のしわさにあらさる由「著聞集」等にも記したれば、もしくは是を誤て光成卿なと云傳へしにや。又近江国志賀郡松本と云地に精大明神社あり。祭礼猿田彦命にて蹴鞠の神なりと云。当社は恐くは是をうつせしものにて光成卿を配祀せるならん。
稲荷社。
般若堂。文殊普賢の外十六善神を置。又不動及二童子あり。不動は智證大師の作又傳教大師のつくれる弁天元三大師降魔の像あり。
地蔵堂。
長命水趾。此井の水を般若水と呼ふ則前に云る雄手洗の跡也。
奈岐木。菓子所大久保主水が植しものなり。高二丈程周四尺もあるへし。樹根に此木を植る顛末を鋳せる碑を立。(新編武蔵風土記稿より)


長命寺所蔵の文化財

  • 芭蕉雪見の句碑(墨田区登録文化財)
  • 成島柳北の碑(墨田区登録文化財)
  • 橘守部・橘冬照墓(墨田区登録史跡)
  • 十返舎一九の狂歌碑
  • 橘東世の歌碑
  • 長命水石文の碑
  • 五狂歌師の狂歌碑
  • 江戸桜の碑
  • 孕山堂江雨燈影の碑
  • 鼠取養犬 六助塚
  • 我興乃蘇鉄の碑
  • 樹月の句碑
  • 密教正道応上綱遺詞の碑
  • 三代目橋市の碑
  • 遠湖先生墓碑
  • 山村一蔵先生碑
  • 奥田昌屏記念の碑
  • 帰囿伊東氏筆塚
  • 退鋒郎毛君疼髪塚銘并序の碑
  • 梅陰先生大黒君碑
  • 南無阿弥陀仏の碑
  • 筆つかの碑
  • 藤田呉江先生之碑
  • 好色院道楽宝梅居士の辞世句碑
  • 鏑木渓庵之碑
  • 勝川春英翁略伝の碑
  • 疼雲山居士故帋碑
  • 好酒院杓盃猩々居士辞世句碑
  • 丹頂斎一声の句碑
  • 現在庵露心の辞世句碑
  • 月双庵笑魚の句碑
  • 九十三翁田夫の句碑
  • 出羽三山の碑
  • 重修大久保忠郷植竹栢栢之碑
  • 守川周重の辞世句碑
  • 滑稽庵五音の句碑
  • 納札塚
  • 万冶2年銘庚申塔(墨田区登録文化財)
  • 春秋庵梅笠の墓

長命寺弁財天

当寺の寺号の由来については、有名な故事がある。その昔、三代将軍家光が墨水沿岸で鷹狩を行った際、急に病を催し、止むを得ずこの寺で休息することになった。そして境内の井戸水で薬を服用したところ、たちまち快癒したので、家光は霊験に感じ、長命水の名を捧げた。以後、長命寺と改めたのである。
弁財天は河(水)の神ということから蛇がお使いとして選ばれ、巳の日に参拝する風習が生まれた。
長命寺に弁財天をまつるのは、その長命水に関係がある。弁財天はもともと天竺の水の神であったからである。仏教とともに渡来してきてからは、次第に芸能の上達や財宝をもたらす信仰が加わり、七福神唯一の女性神になったのである。

芭蕉雪見の句碑

芭蕉の句碑は、全国で千五百余を数えるといわれますが、その中で「いざさらば 雪見にころぶ所まで」と刻まれたこの雪見の句碑は、最もすぐれた一つといわれています。松尾芭蕉の門人祇空はこの地に庵をつくり、その後祇空の門人自在庵祇徳は、庵室に芭蕉像を安置し、芭蕉堂としました。そして、三世自在庵祇徳が安政三年(1858)に庵を再興し、この句碑を建立したのです。
芭蕉は寛永21年(1644)伊賀上野に生まれ、のちに江戸深川六間堀に芭蕉庵を構え、段林派から出て俳諧の境地を高め、「さび」「しおり」「かるみ」に代表される蕉風を不動の地位にしました。元禄7年(1694)旅先の大阪で没しましたが、其角など数多くの門弟を輩出してます(平成18年8月 墨田区教育委員会)

成島柳北の碑

成島柳北は幕末明治の随筆家であり、実業家です。
天保8年(1837)江戸に生まれました。18歳のとき、家職をついで侍講に進み、将軍家茂のために経書を講じました。慶応元年以来次第に重んぜられ外国奉行となり、会計副総裁に進み、幕政に加わりました。幕府崩壊とともに職を退き向島の地に暮らしました。同5年東本願寺(旧通称東京本願寺)の法主に従い訪欧、翌年に帰朝後、公文通誌が朝野新聞と改題され、紙勢を拡張する機会に社長として迎えられ、雑録欄を担当して時事を風刺し、大いに読者を喜ばせました。また、外遊の折、修得した生命保険制度の知識を生かし、日本の生命保険制度の草分けである「共済五百名社」(明治安田生命の前身)の創立に協力。明治17年(1884)11月30日、48歳で没しました。この碑は実業家としての柳北の功績を記念し、明治18年に建立されました(平成18年8月 墨田区教育委員会)

橘守部・橘冬照墓

橘守部は、江戸時代後期の代表的な国学者で、天明元年(1781年)に伊勢国(現三重県)に生まれ、晩年を現在の墨田区内で過ごしました。17歳で江戸に出て独学で国学を修め、一時武州幸手(現埼玉県幸手市)に住み、桐生・足利方面の機業家や豪農を門人として抱え、地方庶民文化の発展と国学の普及に大いに貢献しました。
 その後、浅草弁天山に居を定め、生涯に50種以上の著作を残しました。同郷の先学本居宣長が『古事記』重視の立場を取ったのに対し、守部は『日本書紀』を重視して神典解釈に新境地を開き、平田篤胤、伴信友、香川景樹らとともに「天保の四大家」と称されました。
 嘉永元年(1848年)に肺を患ってから本所法恩寺橋筋に転居し、翌年5月に同地で没して長命寺に葬られました。
現在、守部の墓とともに長子冬照の墓が隣り合わせで並んでいます。守部の墓は花崗岩製、冬照の墓は玄武岩で、いずれも一石の自然石による素朴なものです。

長命寺の周辺図


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