東本願寺|浄土真宗東本願寺派本山
東本願寺の概要
浄土真宗東本願寺派本山の東本願寺は、台東区西浅草にある寺院で、浄土真宗東本願寺派本山東本願寺と称します。徳川家康の命で教如が創建した江戸神田道場光瑞寺に始まり、明暦の大火後現在地に移りました。広い寺域と多くの堂塔を持ち、正徳元年(1711)以降朝鮮通信使の宿舎となっていました。1988年に結成された浄土真宗東本願寺派の本山で、かつては東京本願寺と呼ばれていました。
山号 | - |
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院号 | - |
寺号 | 浄土真宗東本願寺派本山東本願寺 |
住所 | 台東区西浅草1-5-5 |
宗派 | 浄土真宗東本願寺派 |
葬儀・墓地 | 境内墓所受付中 |
備考 | 浄土真宗東本願寺派本山 |
東本願寺の縁起
東本願寺は、徳川家康の命で教如が創建した江戸神田道場光瑞寺に始まり、明暦3年(1675)当地に移りました。広い寺域と多くの堂塔を持ち、正徳元年(1711)以降朝鮮通信使の宿舎となっていました。1988年に結成された浄土真宗東本願寺派の本山です。
「淺草區史」による東本願寺の縁起
東本願寺
松清町にあり。京都東本願寺の別院にして掛所と稱し、東本願寺の輪番所たり。武江圖説・江戸名所圖會に
東本願寺 御裏 京都輪番 淺草
とありて、教如上人開起の由を記せり。江戸名所圖會に
新堀端大通にあり。開山は教如上人。其先本山の住職たりしを、豊臣家の計として順如上人(教如上人の舎弟也)を本寺の門跡に定め、教如上人をば故なく退隠せしめ、裏屋敷に置れしを、神祖竟に召出され、開祖上人の眞影を御寄附ありて、六條室町の末に新に御堂屋舗を下し賜る。夫より後東西にわかる。其後江戸にて末寺建立あり度由訴へ、即ち神田にて寺地を拝領し、一宇を建て、京都よりの輪番所となり、江戸中の門徒を勸化す。云々。當寺超先人来聘の砌旅館となる。
とあり。即ち天正十九年寺地を給せられて筋違橋外加賀原に草剏し、光瑞寺と稱せしが、慶長十四年神田明神下に轉じ靈如上人に至り寛永の頃改めて本願寺末刹と稱し、明暦の災後今の地に移る。一書に寶永八年正月江戸大火に全焼し六月淺草に東西百二間南北百九間を賜る由あり。其の後享保三年及び明和九年の災に罹り、安永五年再建せり。地名辭書に
按、寛文元禄の頃の古圖に東本願寺裏門の邊を法恩寺と標し、砂子に参考すれば今の法恩寺は此にありしを知る。又此別院は慶長中の創置にや、浄心見聞集に本願寺を擧げたり。されど東西の何れにや。元和三年上下紀行にもたゞ本願寺といひて東西を差別せず寛永十四年に至り東西兩別院へ宅地の朱印を下されしこと一書に見ゆ。
とあり。江戸砂子にも『始め神田にて御堂造りあり。明暦年中當所にうつさる』と見えたり。本寺、俗に淺草門跡・東門跡と呼ぶ。
舊支院左の如し
舊時是等の支院を有し、毎月七日立花會あり。十一月廿一日より廿八日まで一週間報恩講あり。信者群衆す。今境内七千二十九坪七勺堂宇建坪二千三百七十八坪あり。啻に區内の名刹なるのみならず、實に市内の巨刹たり。畏くも明治天皇には他に行幸の途二度本寺に臨幸あらせられしが明治九年智法官會議を本寺書院に開き、大久保利通木戸孝允等相會したるとあり。尚本區役所改築に際しても、一時寺内に移轉せしが、其の以前數度區會をこゝに開きし事あり。(「淺草區史」より)
東本願寺所蔵の文化財
- 木造阿彌陀如来立像(東京都指定有形文化財)
- 絹本着色親鸞上人絵伝(台東区登載文化財)
- 絹本着色親鸞上人絵伝(台東区登載文化財)
- 銅鐘(台東区登載文化財)
絹本着色親鸞上人絵伝(昭和63年度登載)
東本願寺は天正19年(1591)江戸筋違門外(現千代田区外神田)に「光瑞寺」の寺号で創建、明暦3年(1675)現在地に移転しました。
この絵伝は3幅の掛幅装で、各々縦140cmほど、横80cmほど。浄土真宗の開祖親鸞の生涯から13の逸話を選び、各幅の画面を四~五段に分けて描いています。
制作年代は不明ですが、ゆったりとした大らかな構図、きびきびとして力強く、素朴な味わいのある図柄であることから、室町時代末期までの制作と考えられます。さらに、本絵伝は13段形式ですが、室町末期以後に制作された絵伝の多くは15段で構成されていることも、この推定を裏付けています。
この絵伝は、室町時代の絵画の特徴を伝える貴重な美術資料です。
絹本着色親鸞上人絵伝(平成4年度登載)
親鸞上人絵伝は、浄土真宗の開祖と仰がれる鎌倉時代の僧侶親鸞(1173-1262)の一生を描いたものです。およそ3種類の形式があり、絵の構成を13段に分けた専修寺本、14段の西本願寺本、15段の東本願寺本と、それぞれ呼ばれています(この場合の東・西本願寺は京都の寺名です)。
本図は4幅で、各々縦131cm、横78.2cm。親鸞の生涯を15段に分けた、典型的な東本願寺本の一種です。第1幅裏面の銘文によると、慶長20年(1615)の銘が墨書され、ほぼこの頃の制作と思われます。保存状態はきわめて良好で、華麗な彩色を遺しており、東本願寺本の形式をよく伝えるものとして、貴重な絵画です。
銅鐘(平成14年度登載)
東本願寺は浄土真宗の寺院で、天正年間(1573-92)の草創と伝えられます。創建の地は詳らかではありませんが、慶長年中に神田筋違門橋外に移転し、慶長14年(1609)に神田明神下へ、さらに明暦の大火(1657)以後、当地に移転したと伝えられます。
本銅鐘は青銅製。総高は302センチ。銘文に寛永7年(1630)12月28日の紀年銘があります。撰文は東本願寺13世宣如光従です。
本銅鐘を鋳造した鋳物師は明らかではありませんが、撞座や龍頭、下帯にある唐草文の意匠から、江戸時代初期に活躍した鋳物師、長谷川越後守による鋳造と推定されます。長谷川越後守を名乗る鋳物師は、吉家と家吉が知られており、いずれも十七世紀に活躍しています。とくに吉家は元和・寛永期に作例を残しており、本鐘も長谷川越後守吉家によって鋳造されたと考えられます。
本銅鐘は区内に現存する銅鐘の中でも古いものに属します。また大きさは、区内随一の巨鐘です。
東本願寺の周辺図
参考資料
- 「淺草區史」