唯念寺|台東区元浅草にある真宗高田派寺院

猫の足あとによる東京都寺社案内

至心山唯念寺|真宗高田派旧觸頭

唯念寺の概要

真宗高田派の唯念寺は、至心山触光院と号します。唯念寺は、天文15年(1546)品川に草創、長昌院浄因大僧都法印(慶長17年1611年寂)が開山となったといいます。馬喰町への移転を経て、当地へ移転しました。塔頭の林柔寺(当寺は林昌軒)の住職の子(月光院)が、六代将軍家宣の側室となって阿喜与と称し、後の七代将軍家継を生んだことから、寺地拡張、御朱印領を頂戴したといいます。
元浅草光澤山称念寺、溜池の静龍山澄泉寺と共に真宗高田派本山専修寺の分院格で、林柔寺願寿寺南松寺の塔頭3ヶ寺を擁していました。

唯念寺
唯念寺の概要
山号 至心山
院号 触光院
寺号 唯念寺
住所 台東区元浅草2-11-3
宗派 真宗高田派
葬儀・墓地 -
備考 -



唯念寺の縁起

唯念寺は、長昌院浄因大僧都法印(慶長17年1611年寂)が開山となり、勝念寺と号して天文15年(1546)品川に草創したといいます。馬喰町への移転を経て、当地へ移転しました。塔頭の林柔寺(当寺は林昌軒)の住職の子(月光院)が、六代将軍家宣の側室となって阿喜与と称し、後の七代将軍家継を生んだことから、寺地拡張、寺領100石の御朱印地を遊馬に受領、真宗高田派の觸頭となったといいます。

「下谷區史」による唯念寺の縁起

唯念寺(南稲荷町九八番地)
伊勢一身田専修寺末、至心山觸光院と號す。本尊阿彌陀如来。天文十五年(或は元龜元年ともいふ)僧浄因、武蔵荏原郡品川に草創した。はじめ勝念寺と號し、後今の名に改めた。正保三年府内馬喰町に移り、本山法主僧正堯朝出府の宿寺となつたが、その八月二十二日、堯朝は病を以て當寺に寂したので、住持清元之を荼毘して境内に葬つた。尋で明暦四年正月の大火に類焼の厄に遭ひ、現地に轉じ、幕府より境内千八百七十八坪を給せられ、後末寺として教受坊と公稱した。正徳四年九月、幕府は将軍徳川家繼の生母勝田氏の由緒を以て、武蔵足立郡遊馬村に於て寺領百石を給ひ、且つ隣寺正定寺成就院の境内を分割して若干坪を增給するところあり、更に住職の紫衣着用を許した。尋で元禄年中各宗寺院觸頭を定めるに際し、當寺は高田派觸頭となつた。
舊子院南松寺、林柔寺願壽寺は、明治以後何れも獨立したが、大正十二年秋の大震火災後、南松寺は葛飾區新宿町河原字池淵に、林柔寺は同區本田川端町字入合へ移轉し、願壽寺のみは依然として舊位置に在る。
なほ、境内に大僧正堯朝、儒家八田華陽、畫家山崎武陵、醫家山田立良の墓がある。(「下谷區史」より)

後府内寺社備考による唯念寺の縁起

伊勢国専修寺末 浅草新寺町 至心山触光院唯念寺、境内拝領地2927坪内門前町屋有。
御朱印寺領100石。
当寺者天文15年草創ニ而往古寺地品川ニ御座候処神君様御地割之節、馬喰町ニおいて易地拝領仕候。此坪数1775坪4合ニ御座候。明暦3年正月18日焼失仕、同年為屋敷替地代地浅草新寺町ニ而地面拝領仕候。即当地寺地ニ御座候。然ル処第6世清寿代、月光院様格別之御由緒御座候故、正徳4年境内狭小ニ付隣寺正定寺境内并西之方ニおいて成就院地面内少々為添地被地被下置候旨、同年9月3日森川出羽守殿御宅ニ而土井伊代守殿被仰渡候。以後総坪数2927坪余ニ相成申候。
開山長昌院浄因大僧都法印。俗性藤原姓也。本多氏ニ而慶長17年9月17日示寂。
中興6世覚成院清寿上人。(中略)
塔頭3ヶ寺。林柔寺願寿寺南松寺。(後府内寺社備考より)


唯念寺所蔵の文化財

  • 木造阿弥陀如来立像(台東区登載文化財)

木造阿弥陀如来立像

唯念寺(真宗高田派)の本尊阿弥陀如来立像は像高98cm、正面を向き左足をやや前に出しています。
ヒノキ材を用い、割矧造という制作方法で造られたもので、頭部に群青、体・衣部には漆箔をほどこし、玉眼をはめ込んでいます。
阿弥陀如来は西方極楽浄土の教主とされる仏で、阿弥陀信仰は平安時代中期から貴賤を問わず広がったため、極楽への往生を願う人々により数多くの像や絵が造られました。とくに、鎌倉時代初期の仏師快慶が左足をやや前に出した来迎型の阿弥陀如来を造像すると、以後、この形が阿弥陀如来像の典型となりました。
本像も来迎型阿弥陀如来像のひとつです。作者は不明ですが、衣文の表現が写実性に富み、割矧造の正統的な技法で造られていることなどから、制作年代は鎌倉時代初期と推定されます。区内に現存する阿弥陀如来像の中では、きわめて古いもののひとつであり、貴重な遺品です。


唯念寺の周辺図


参考資料

  • 「下谷區史」
  • 御府内寺社備考