静龍山澄泉寺|港区赤坂にある真宗高田派寺院
澄泉寺の概要
真宗高田派寺院の澄泉寺は、静龍山清浄楽院と号します。澄泉寺は、惠称院唯光大和尚(寛永2年寂)が開基となり元和元年麻布櫻田に創建、寛永3年地所が御用地となり、当地へ移転したといいます。江戸期には塔頭3ヵ寺を擁し、浅草唯念寺・浅草称念寺と共に真宗高田派の触頭となっていました。
山号 | 静龍山 |
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院号 | 清浄楽院 |
寺号 | 澄泉寺 |
住所 | 港区赤坂1-11-3 |
宗派 | 真宗高田派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 旧真宗高田派触頭 |
澄泉寺の縁起
澄泉寺は、惠称院唯光大和尚(寛永2年寂)が開基となり元和元年麻布櫻田に創建、寛永3年地所が御用地となり、当地へ移転したといいます。江戸期には塔頭3ヵ寺(正福寺、林誓寺、常国寺)を擁し、浅草唯念寺・浅草称念寺と共に真宗高田派の触頭となっていました。
「赤坂區史」による澄泉寺の縁起
眞宗高田派澄泉寺(山號及別號靜龍山清浄楽院、伊勢一身田専修寺末)靈南坂町十番地
元和元年櫻田邊に起立したが、越えて寛永三年第二世榮保院空心大和尚の時、御用地となり、現在の地(その當時麻布櫻田町の内)に替地を給せられて引移つた。爾来櫻田澄泉寺と唱へたのである。
開基は慈稱院唯光大和尚(寛永二年十一月十八日寂)である。
當寺は江戸時代には高田派の觸頭にして、淺草稱念寺、同唯念寺と共に、高田派の江戸三箇寺と呼ばれたのであつた。
境内に、もと産千代稲荷といふ祠堂があつたものだが、何時の頃か増上寺觀智院へ譲渡したといふことが、文政寺社書上に記されてゐる。
塔頭に常國寺、正福寺、林誓寺があつたが、今は上述のごとく、各獨立の一箇寺となつてゐる。
當寺には(東京府指定史蹟)林鶴梁の墓がある。鶴梁名は長孺、通稱伊太郎、もと幕府の代官、儒者、勤皇家にして、文章に長じ、著書に「鶴梁文鈔」がある。明治十一年一月歿、年七十三。贈正五位。(「赤坂區史」より)
御府内寺社備考による澄泉寺の縁起
伊勢国専修寺末 櫻田
静龍山清浄楽院澄泉寺、境内拝領地1374坪
起立之儀者元和元乙酉年櫻田ニ寺地拝領仕候 寛永三丙寅年二代目栄保院空心大和尚之節御用地ニ被召上当時之場所ニ替地被下置候、其節酒井雅楽頭殿御取次を以朽木民部少輔殿被仰渡候、其後御奉行所ニ〇〇拝領書付桜田 認来候委霞山舊記消失仕相知不申候。触頭ニ相成候年月又相知不申候。
開基惠称院唯光大和尚寛永二乙丑年十一月十八日寂。
本堂、拾一間四面。本尊阿弥陀如来、木立像長弐尺六寸恵心僧都作。親鸞聖人木像。無上々院宮真影画像、右者専修寺御門跡十八代目有栖川宮御子。七祖真影画像。聖徳太子木立像。
鐘楼堂、三間四面。大鐘、元禄十四辛巳年十一月廿八日鋳之銘文如左(略)。
寶物。
一、親鸞聖人真筆九字名号写左之通。南旡不可思議光如来。建歴元未十二月二十四日、行年三十歳愚禿善信判。
一、同真筆六字名号鏡御影并詠前。南無阿弥陀佛。
境内ニ往古手代稲荷唱候社有之候処後増上寺境内観智院に譲申候年代詳不申候。(御府内寺社備考より)
澄泉寺所蔵の文化財
- 林鶴梁墓(東京都指定旧跡)
林鶴梁墓
林鶴梁は幕末から明治始めの儒学者。名は長孺。通称を伊太郎といった。文化三年(1806)旗本の家に生まれた。若いころは博徒などと交わったが、のち学問に志し、古文を長野豊山、経書を松崎慊堂に師事し研鑽を積んだ。弘化二年(1845)甲府徽典館の学頭となり、ついで遠江国中泉(静岡県磐田市)の代官に任命された。凶年には、救済と備蓄の法を講じ、大いに治水に効があった。出羽國幸生(山形県寒河江市)の代官に転じたあとは、鉱山の開発を行い、銅山の監督などに精励した。
嘉永六年(1853)、ペルー来航に際し鎖国政策の強化を説いた。文久元年(1861)、降嫁した和宮付きとなったが、対外施策問題で幕府首脳部から排斥され野に下った。その後も各藩の志士と交わり尊皇攘夷を唱えた。
維新後も新政府には仕えず、麻布に学塾「端塾」を開き教育に従事した。著書に「鶴梁文鈔」「紀舟行」「四得録」などがある。明治十一年(1878)一月六日、七十八歳で没した。墓石には、鶴梁林先生之墓とある。(東京都教育委員会掲示より)
澄泉寺の周辺図
参考資料
- 「赤坂區史」
- 御府内寺社備考