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称福寺|台東区今戸にある浄土真宗本願寺派寺院

称福寺の概要

浄土真宗本願寺派寺院の称福寺は、清国山浄智院と号します。称福寺は寛永6年(1629)小石川水道橋に起立、了知法師(延宝8年1680年寂)が開山したといいます。寛永19年(1643)当地へ移転したといいます。

称福寺
称福寺の概要
山号 清国山
院号 浄智院
寺号 称福寺
住所 台東区今戸2-5-4
宗派 浄土真宗本願寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



称福寺の縁起

称福寺は寛永6年(1629)小石川水道橋に起立、了知法師(延宝8年1680年寂)が開山したといいます。寛永19年(1643)当地へ移転したといいます。

御府内寺社備考による称福寺の縁起

西本願寺末 浅草今戸町
清国山浄智院称福寺
起立寛永6年。同19年小石川水道町より此地江引申候。
開山了知法師。延宝8年8月13日寂。
本尊弥陀。免許状釈良如、正保3年9月2日願主釈了知。
大鐘、享保6年鋳造。以上乙酉書上。(御府内寺社備考より)


称福寺所蔵の文化財

  • 亀田鵬斎墓(東京都指定文化財)
  • 柴田是真墓(台東区登載文化財)

亀田鵬斎墓(指定昭和33年10月7日)

亀田鵬斎は江戸時代後期の著名な儒学者である。宝暦2年(1752)江戸・神田に生まれた。名は翼といい、のち長興。字は穉龍、通称文左衛門、鵬斎、善身堂と号した。折衷学者井上金峨(墓地は港区青松寺・東京都指定旧跡)に学び、山本北山とともに荻生徂徠(墓地は港区長松寺・国指定史跡)の古文辞学と排撃し、朱子学を批判したために、寛政異学の禁では異端の筆頭と目されていた。
書をよくし、草書は近世を通じての名手といわれている。著書に「論語撮解」「善身堂詩鈔」などがある。
文政9年(1826)、75歳で没した。墓石には「鵬斎亀田先生之墓」と刻している。

柴田是真墓(平成7年度登載)

柴田是真は、幕末から明治時代に活躍した絵師・蒔絵師です。文化4年(1807)2月7日に江戸橘町二丁目(現在の中央区東日本橋付近)で生まれ、同14年蒔絵師古満寛哉に入門して蒔絵の技術を、文政5年(1826)には円山四条派の絵師鈴木南嶺に就いて絵画を学び、同14年には京都でも研鑽に努めています。江戸に帰ると、是真は浅草平右衛門町石切河岸(現在の台東区浅草橋一丁目付近)に居を構えました。石切河岸は、神田川をはさんで柳原に対する地であるため、居宅を「対柳居」と命名。以後、亡くなるまでの50余年間、この対柳居で数々の名品・秀作を制作しました。絵画では浅草寺所蔵「茨木図絵馬」、蒔絵では東京国立博物館所蔵「烏鷺図菓子器」などが現存しています。また、和紙に色漆で描く漆絵も多数遺しています。当時、蒔絵職人は、専門の絵師が描いた下図をもとに蒔絵を制作していたのですが、是真は自ら下図を描くことにより、画期的な蒔絵・漆絵を生み出すことに成功しました。
さらに、個人的な創作活動だけでなく、明治12年に「竜池会」(日本美術協会の前身)、同18年には「東洋絵画会」の設立に尽力、同24年には漆工技術の普及・発展を目的とした「日本漆工会」を創設するなど、美術界の公的活動をも積極的に行い、後進の育成にも力を注ぎました。
明治24年7月13日没、享年85才。柴田家の菩提寺称福寺に葬られました。墓石は総高130.5cm、正面には是真の法名「弘道院釈是真居士」が刻まれています。 是真は、当時を代表する蒔絵師・絵師であるだけでなく、創作活動の拠点を台東区内に置いており、その墓所は区の歴史・文化を知る上で貴重な史跡です。 なお、「是真」の号は、聖徳太子が遺したという「世間虚仮 唯仏是真」の偈に拠るものです。


称福寺の周辺図


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