大雄山海禅寺|蜂須賀家をはじめ諸侯から厚く庇護、旧臨済宗妙心寺末の触頭
海禅寺の概要
臨済宗系単立寺院の海禅寺は、大雄山と号します。海禅寺は、慶長8年(1603)に起立、寛永元年(1624年)神田明神北妻恋に草創、寺号は下総国相馬郡に平将門が創建したとされる同名の寺に因んで命名したといいます。振袖火事の後、当地へ移転しました。蜂須賀家をはじめ諸侯から厚く庇護を受け、「阿波様寺」とも称され、塔頭4ヶ寺(霊梅軒(霊梅寺)、泊船軒、寒窓軒、瑞光庵)を擁していた他、臨済宗妙心寺末の触頭を湯島麟祥院、高輪東禅寺、牛込松源寺と共に勤めていました。
山号 | 大雄山 |
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院号 | - |
寺号 | 海禅寺 |
住所 | 台東区松が谷3-3-3 |
宗派 | 臨済宗系単立 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
海禅寺の縁起
海禅寺は、慶長8年(1603)に起立、寛永元年(1624年)神田明神北妻恋に草創、寺号は下総国相馬郡に平将門が創建したとされる同名の寺に因んで命名したといいます。振袖火事の後、当地へ移転しました。蜂須賀家をはじめ諸侯から厚く庇護を受け、「阿波様寺」とも称され、塔頭4ヶ寺(霊梅軒(霊梅寺)、泊船軒、寒窓軒、瑞光庵)を擁していた他、臨済宗妙心寺末の触頭を湯島麟祥院、高輪東禅寺、牛込松源寺と共に勤めていました。
御府内寺社備考による海禅寺の縁起
京都花園妙心寺末 浅草不唱小名
大雄山海禅寺、境内拝領地6762坪8合3勺借漆年貢地2400坪
起立之儀は、慶長8年ニ御座候。
開山勅賜無礙浄光禅師覚印周嘉和尚は旧住下総国相馬郡高埜邨海禅寺。慶長8年4月依、台命出府乃謁観於秀忠公
家光公両殿下吹嘘之者曽我主計頭尚祐也云。爾来時々来往登、城随於、殿下之親問上答足利家歴代之憲法或経論護法之薀奥大如懸河而道徳兼備亦最勝於
東照神君之附属尚被感悦為博覧之知識而後賜於城外単庵掩留於此矣。寛永元年3月12日於
謁見之時蒙賜地於湯島妻恋令創造一宇住之乃山号大雄寺曰海禅更所 命以吾関山門派之棟梁曽謂所開創平親王将門之下総相馬郡海禅寺者以旧住之地延用扁之也。復屡雖有可被附膏腴田之 台命固辞不受弁道暇時々随衆徒到 城庫分衛以鉗鎚緇素所謂佛入舎衛城乞食大相似護釈氏之風貴族君臣道俗男女帰嚮其智執弟子之礼得師檀之因者無遑枚挙、就中阿州蜂須賀祖蓬庵居士者旧以道友長子後孫亦随受師鉗鎚草創一宇於門内扁曰霊梅令師肥遯之親子伯仲時々来往弁問之矣其住任者授嘱小師古道和尚同辱 公命勉之云其他嗣法者分披四方闡揚道風紹隆今日矣。于時世歯八十三寛永10年冬臘月初5掩、爯坐化為而後、明暦3年正月18日罹祝融災故賜替地於此相丁茲時草創宝殿安排祖佛以伸供養者蜂須賀阿波守光隆侯也。諸檀越復随喜捨浄財再興堂宇一新之報答遺徳云云。
開山勅賜無礙浄光禅師覚印周嘉和尚、寛永10年5月16日寂。
中興開基松平阿波守
本堂、本尊釈迦牟尼如来、開山祖像、4世中興祖師像
鐘楼堂、洪鐘径2尺7寸5分長4尺9寸(中略)
塔頭。霊梅軒(霊梅寺)、泊船軒、寒窓軒、瑞光庵。以上乙酉書上。(御府内寺社備考より)
海禅寺所蔵の文化財
- 梅田雲浜墓
梅田雲浜墓
雲浜は名を始め義質、のち改めて定明といった。通称は源次郎。雲浜は号である。若狭国小浜藩士、矢部岩十郎の次男として、文化12年(1815)6月7日生まれ、のち祖父の生家梅田氏を継いで改姓した。
朱子学を修め、大津、京都で子弟を教える。嘉永5年(1852)幕府を批判したため小浜藩を追放される。しかし藤田東湖・佐久間象山・高杉晋作らと交際し尊王攘夷論を唱え、梁川星巌らとともに在京志士を指導した。その活動は常に幕政批判で、開国論者の大老井伊直弼排斥も企てたが、安政5年(1858)の「安政の大獄」で捕らえられた。翌6年9月14日、小倉藩江戸邸の獄中で病没。遺体は海禅寺内の泊船軒に仮埋葬され、文久2年(1862)現存の墓石が建てられた。墓石は関東大震災で大破したが、正面に「勝倫斎俊巌義哲居士」と、戒名が刻まれている
海禅寺のもと塔頭寺院
海禅寺の周辺図