松源寺。中野区上高田にある臨済宗妙心寺派寺院

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蒼龍山松源寺。臨済宗妙心寺派觸頭、山の手三十三観音、東京三十三観音

松源寺の概要

臨済宗妙心寺派寺院の松源寺は、蒼龍山と号します。松源寺は、勅諡靈鑑普照禅師が(千代田区)番町に開山、慶長18年(1613)牛込神楽坂に移転、江戸時代には臨済宗妙心寺派寺院の觸頭を勤めていたといいます。戸田山城守忠昌(松源寺殿法雲龍澤居士)で、延宝天和年間頃に開基檀家となったといいます。明治41年(1909)当地に移転したといいます。山の手三十三観音霊場2番、東京三十三観音霊場19番です。

松源寺
松源寺の概要
山号 蒼龍山
院号 -
寺号 松源寺
住所 中野区上高田1-27-3
宗派 臨済宗妙心寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



松源寺の縁起

松源寺は、勅諡靈鑑普照禅師が(千代田区)番町に開山、慶長18年(1613)牛込神楽坂に移転、江戸時代には臨済宗妙心寺派寺院の觸頭を勤めていたといいます。戸田山城守忠昌(松源寺殿法雲龍澤居士)で、延宝天和年間頃に開基檀家となったといいます。明治41年(1909)当地に移転したといいます。

「牛込區史」による松源寺の縁起

蒼龍山松源寺 妙心寺末
年代不詳、麹町四番町に起立。慶長十八年通寺町に移つた。開山蓬山宗岳大和尚、(野州佐野の人)勅諡靈鑑普照禅師、寛永四年三月五日迂化。中興大震和尚、寛文元年十一月朔日迂化。開基松源寺殿法雲龍澤居士、(俗姓戸田山城守忠昌)延寳天和頃より開基檀家となり、元禄十二年九月十日逝去。舊境内拝領地千五百五十八坪、年貢添地四百九十四坪、無年貢添地二百六十四坪餘。(「牛込區史」より)

東京名所図会による松源寺の縁起

松源寺
松源寺は通寺町二十一番地に在り、蒼龍山と號す、臨済宗、妙心寺末、俗に猿寺と呼ぶなり。
江戸名所図會に云、蒼龍山松源寺、花洛妙心寺派の禅林にして、江戸の觸頭四ヶ寺の一員たり、本専に釈迦如来の像を安ず、開山は靈鑑普照禅師と號す、禅師諱は宗丘、字を蓬山といへり、俗に長刀蓬山といふ、昔境内に猿をつなぎて置たりとて今も世に猿寺と號く、舊地は番町なりといへり、観音堂本尊は観世音にて、弘法大師の作なり。
昔は江戸同宗門の觸頭にして寺門、大に榮えたりしも、今や全く荒廢に帰し、本堂なく、靈殿なく、庫裡を以て之に充てられば、佛刹としての建築にあらず、僅かた鰐口と共に「一切功徳慈眼視衆生」「豊毛備胤書」の片聨と「ありがたやつみもむくいもさる寺の大悲のちなむ松は常盤木」の扁額あるのみ。
堂前は廣場にして児童の土なぶりするあり、慶安四年寄進の石燈籠一對は空しく放光、法界の文字を彫り、芭蕉は風に敗れて明暦年號の断碑、半ば埋みて、何人の墳墓なるらむ、「寛文二年壬寅四月十九日安養紹閑居士」の一基、地水風の理を観じて建てり。墓地は東北位、二十二番地にあり、住職斎藤宗俊。(東京名所図会より)


松源寺の周辺図