用明山聖徳寺|玉川用水を開削した玉川兄弟の墓所
聖徳寺の概要
浄土宗寺院の聖徳寺は、用明山四天王院と号します。聖徳寺の創建年代は不詳ですが、聖実清公上人が創建したと伝えられます。享徳2年(1453)に加誉上人良祐和尚が浄土宗寺院として中興、徳川家康の関東入国翌年に坪根沢から平河へ、後大船、馬喰町への移転を経て、明暦3年の大火後当地へ移転しました。当寺は玉川用水を開削した玉川兄弟(玉川庄右衛門および清右衛門)の墓所です。
山号 | 用明山 |
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院号 | 四天王院 |
寺号 | 聖徳寺 |
住所 | 台東区松が谷2-3-3 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
聖徳寺の縁起
聖徳寺の創建年代は不詳ですが、聖実清公上人が創建したと伝えられます。享徳2年(1453)に加誉上人良祐和尚が浄土宗寺院として中興、徳川家康の関東入国翌年に坪根沢から平河へ、後大船、馬喰町への移転を経て、明暦3年の大火後当地へ移転しました。当寺は玉川用水を開削した玉川兄弟(玉川庄右衛門および清右衛門)の墓所です。
御府内寺社備考による聖徳寺の縁起
増上寺末 浅草新寺町
用明山四天王院聖徳寺、境内古跡拝領地1384坪余
当寺者昔江城之西坪根沢二於て聖実清公上人一寺を草創シ上官太子之像を安置す年代不詳。
其後後花園院御字享徳二癸酉年、忠蓮社加誉上人良祐和尚中興之。始て浄土宗とす。
御入国之翌年坪根沢より平川ロへ移り、其後大船町へ移り、慶長十二丁未年馬喰町追廻ヒ転じ、明暦三丁酉年類焼之後、今之地江引移申候。
中興開山忠蓮社加誉上人、長禄三己卯年二月八日寂。
本堂。本尊阿弥陀如来座像。
聖徳太子立像長2尺7寸、秘仏、太子作ト云、左右ニ四天王有之。
縁起左之通。
大凡物有始終者天地之常也而関盛衰之変者時世之所廃輿也伝称聖徳寺者昔時聖徳太子之門生聖実清公聖人者以群弟之俊逸為仏法広隆遊歴於於武州偶逗江城之西坪根沢新営構干一宇親崇尊于先師為開基之始遠請京師迎御作堂奉安置太子之像号謂用明山聖徳寺其取天王太子之名者準擬父子之序示永不忘其萱権輿也自是関東之仏法月新年盛也所謂物有始者也爾来一将及中絶然
後花園院之御宇幸徳二年到尊氏七代絲義政将軍之時而逮浄家之学匠忠蓮社加誉艮祐上人長悲古跡之廃憤然興思漸再復旧制是非廃興耶自良祐以降相継不断錬愚走十五世凡二百廿一年也雖然歳旧物換而屡移易地往々環堵亦益狭隘也剰古跡縁起一通罹丁酉之回祿咸為煨燼矣吁累世雖汲下流望洋兮未知濫觴之所自出是又所盛衰也余慨嘆之余繹過去帳之中考仏器之所鏤或捜幔之篆雕別記当寺之縁起以胎後世是其大概也庶幾為法流之万世不廃第一補云爾
寛文十二年壬申仲冬望日
用明山聖徳寺第十五世住中興満蓮社行誉単愚上人伝把叟欽焉
三国筆海堂真幸氏正心父筆之。
円光大師座像自作、長1尺2寸。
聖徳太子憲法十七条并五十八ヶ条制禁一巻
石地蔵立像、長8尺5寸、相州塔ノ沢弾誓上人作、東方三十番札所ナリ。
鎮守熊野社、類焼後再建無之神体画像。
供養塔護念経一万五千部説法七千余座、当寺第十九世冠誉光厳和尚建ル。
末寺。
公春院、箕輪通新道。天然寺、駒込富士前。
以上乙酉書上
上官太子十六歳影像。自作。当寺往古 御城西坪根沢に有。聖実上人太子の像をもりて関東に下向し、つほね沢に一字を建。後花園天皇享徳二年、忠蓮社加誉上人良祐中興し浄土門とす。後神田にうつり、又当所に移る。
土中出現地蔵 相州一の沢木食弾誉上人の作仏なり。当寺十七世の住侶霊夢ありて、石仏の御首を堀得て全体を石工に作らしむ。以上再校江戸砂子。(御府内寺社備考より)
聖徳寺所蔵の文化財
- 玉川庄右衛門および清右衛門墓
玉川庄右衛門および清右衛門墓
庄右衛門・清右衛門の兄弟は、玉川上水開削工事の請負者で、江戸の町人と言われていかが、その出身地は明らかではない。玉川上水の開削工事は、四代将軍将軍家綱の承応2年(1653)1月13日に幕命が下り、2月11日に着工された。工事費として幕府から7500両が下賜されたという。羽村から四谷大木戸に至る43キロの導水部は、承応3年(1654)6月20日に完成した。その後給水地域は順次拡大され、江戸城内をはじめ四谷・麹町・赤坂の高台などの山の手から、芝・京橋方面に及んでいる。現存する玉川上水は、江戸時代初期の土木技術の水澤を今日に伝える貴重な文化財である。近世都市江戸の水道施設建設の功績により、兄弟は200石の扶持を賜り、玉川上水役に任ぜられた。また玉川という名字を与えられ、帯刀も許された。兄の庄右衛門は元禄8年(1695)に、弟の清右衛門は翌年の元禄9年に死去した。明治44年、(1911)政府は、玉川兄弟の功績に対して徒五位を追贈した。
聖徳寺の周辺図