浄名院|台東区上野桜木にある天台宗寺院

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浄名院|江戸六地蔵六番

浄名院の概要

天台宗寺院の浄名院は、寛永寺36坊の一つとしてとして圭海大僧都が開基となり寛文6年(1666)創建、享保8年(1823)に寺号を浄円院から浄名院へ改めたといいます。境内には、江戸六地蔵六番があります。

浄名院
浄名院の概要
山号 東叡山
院号 浄名院
寺号 -
住所 台東区上野桜木2-6-4
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 寛永寺三十六坊の一


※御朱印画像はいけみずさんよりの寄贈


浄名院の縁起

浄名院は、寛永寺36坊の一つとしてとして圭海大僧都が開基となり寛文6年(1666)創建、享保8年(1823)に寺号を浄円院から浄名院へ改めたといいます。

東京名所図会による浄名院の縁起

(律院)浄明院
開基浄丹院圭海僧正初日蓮宗なり。(東京名所図会より)

境内掲示による浄名院の縁起

昔は高重院、其後寛文6年(1667)圭海大僧都開基東叡山36坊の浄円院と称し、寺領200石を賜う。五代将軍綱吉公の母宝樹院菩提所となり、寛海和尚は善養院に転住さる。寛文12年当山第1世妙立和尚安楽律の新法門を唱導。之に対し山徒頻に誹謗せしが、妙立門下霊空和尚出で師説を顕揚す。
当時日本仏法の大王輪王寺宮の大御心を動かし奉るに到り、遂に享保8年御令旨に依り安楽一派を興立し、当山は浄名律院も改称し建立さる。又一山一ヶ寺の制を設けて、比叡山に安楽律院、東叡山に当山、日光山に興雲律院の三院県立本山とし、徳川幕府の本宗棹尾の偉観を呈す。大明院宮、崇保院宮、隋宜楽院宮、御三代法親王の御崇敬を仰ぐ。殊に崇保院宮は地蔵信仰深く自ら尊像を画き江戸府内寺院に賜り毎月24日の縁日はそれより始まる。
当山38世妙運和尚自他の人を合わせ、八万四千の石地蔵尊を建立し、上は仏祖の供恩に酬い、下澆末の衆生を救わんとして発願さるや、直に北白川宮能久親王殿下の十数体奉納あり。徳川、小松、一条、近衛、毛利等各家の奉納に倣い、各界の人之に続き建立今日に到る。
境内には明治初年神仏分離に際し、江戸六地蔵六番(永代寺富丘八幡宮の別当寺)は廃寺となり、地蔵尊も破壊され、以来当寺に江戸六地蔵第六番として再造された。(境内掲示より)

浄名院の八万四千体地蔵

この寺の名は初め浄円院といい、寛文6年(1666)寛永寺36坊の一つとして創建された。享保8年(1823)浄名院となる。表門は享保年間(1716-35)の建立。 地蔵信仰の寺となったのは第38世地蔵比丘妙運和尚の代からである。妙運和尚は大阪に生まれ、25歳で日光山星宮の常観庵にこもったとき地蔵信仰を得、一千体の石造地蔵菩薩像建立の発願を建てた。明治9年浄名院に入り、明治12年、さきの一千体の願が満ちると、さらに八万四千体建立の大誓願に進んだ。明治18年には地蔵山総本尊を建立。各地から多数の信者が加わり、地蔵菩薩像の数は増え続けている。 境内にある青銅製の大きな地蔵菩薩坐像は、かつて江戸六地蔵第六番の地蔵菩薩像があった深川永代寺が明治維新のとき廃寺になったためと、日露戦争の戦没者を弔うため、明治39年新たに建立されたものである。 なお、旧8月15日の「へちま供養」には、せき、ぜんそくに効験を願う人々で賑わう。(台東区教育委員会掲示より)


浄名院の周辺図