蓮葉山観音寺|赤穂浪士供養塔、御府内八十八ヶ所霊場、上野王子駒込辺三十三ヶ所
観音寺の概要
新義真言宗寺院の観音寺は、蓮葉山妙智院と号します。観音寺は、慶長年間(1596-1615)神田北寺町に起立し、延宝8年(1680)当地へ移転したといいます。当初長福寺と称していましたが、享保元年(1716)観音寺と改称したといいます。赤穂浪士討入りに名を連ねた近松勘六行重と奥田貞右衛門行高が当寺第6世朝山大和尚の兄弟であったことから、赤穂浪士討入りの会合にもよく使われ、討入り後には赤穂浪士供養塔が建立されました。御府内八十八ヶ所霊場42番札所、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場32番、御府内二十一ヶ所霊場3番札所です。
山号 | 蓮葉山 |
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院号 | 妙智院 |
寺号 | 観音寺 |
住所 | 台東区谷中5-8-28 |
宗派 | 新義真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 御府内八十八ヶ所霊場42番札所、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場32番札所 |
観音寺の縁起
観音寺は、慶長年間(1596-1615)神田北寺町に起立し、延宝8年(1680)当地へ移転したといいます。当初長福寺と称していましたが、享保元年(1716)観音寺と改称したといいます。
「下谷區史」による観音寺の縁起
観音寺(谷中上三崎北町)
本所彌勒寺末、蓬莱山と號す。本尊大日如来。當寺も亦加納院と同じく、慶長十六年、幕府より神田北寺町に地を賜うて起立し、慶安元年谷中清水坂に移り、延寶八年現地に轉じた。開山は僧尊雄。境内に観音堂(如意輪観音安置)、大師堂(弘法大師像安置)、駄枳尼天堂(駄枳尼天安置)がある。(「下谷區史」より)
御府内寺社備考による観音寺の縁起
本所弥勒寺末 谷中不唱小名
蓮葉山妙智院観音寺 境内拝領地1134坪余内門前町屋有。
起立慶長年中。権現様御代、神田北寺町ニて表間口37間4尺5寸余、裏行45間天地、坪数1680坪余拝領仕候。御奉行米津勘兵衛様御役中ニ御座候。
大猷院様御代御用地ニ相成被召上。代地谷中清水坂ニ而右之坪数程拝領仕候。御奉行安藤右京様松平出雲守様被仰渡候。
厳有院様御代御用地ニ相成、延宝8年唯今之場所代地拝領仕候。
開基尊雄、寂年不知。中興開基当時第6世朝快住職中、本所弥勒寺之末寺ニ相成申候。右等之始末古記録等焼失仕候ニ付聢与相分不申候。(御府内寺社備考より)
観音寺所蔵の文化財
- 赤穂浪士供養塔
赤穂浪士の吉良邸討入りは「忠臣蔵」の題材として、広く世に知られている。 四十七士に名をつらねる近松勘六行重と奥田貞右衛門行高は、当寺で修行していた文良の兄と弟であった。文良とは、のち当寺第6世となった朝山大和尚のことである。 寺伝によれば、文良は浪士らにでき得る限りの便宜をはかり、寺内でしばしば彼らの会合が開かれたという。明治末の福本日南の著作「元禄快挙録」には、勘六は死にのぞみ「今日の仕儀勘六喜んで身罷ったと、長福寺の文良へお伝え下されたい」と遺言したというエピソードが記されている。当寺はもと長福寺と称し、享保元年(1716)観音寺と改称した。 本堂に向かって右側にある宝篋印塔は四十七士慰霊塔として古くから伝えられ、現在でも霊を弔う人が訪れている。上部に四方仏を表す種字(梵字)、下部に宝篋印陀羅尼経、宝永4年(1707)3月吉日、長福寺6世朝山の名を刻む。(台東区教育委員会掲示より)
観音寺の周辺図
参考資料
- 御府内寺社備考
- 「下谷區史」