佛到山西光寺|佐竹右京太夫義宣公開基
西光寺の概要
新義真言宗寺院の西光寺は、佛到山無量寿院と号します。西光寺は、佐竹右京太夫義宣公(法名浄光院殿傑堂天英大居士)が開基、宥義法印(俗姓佐竹大膳太夫義篤公二男)が開山となり、神田北寺町に慶長8年(1603)創建、慶安元年(1648)当地へ移転したといいます。上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場7番、御府内二十一ヶ所霊場7番です。
山号 | 佛到山 |
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院号 | 無量寿院 |
寺号 | 西光寺 |
住所 | 台東区谷中6-2-20 |
宗派 | 新義真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場7番 |
西光寺の縁起
西光寺は、佐竹右京太夫義宣公(法名浄光院殿傑堂天英大居士)が開基、宥義法印(俗姓佐竹大膳太夫義篤公二男)が開山となり、神田北寺町に慶長8年(1603)創建、慶安元年(1648)当地へ移転したといいます。
「下谷區史」による西光寺の縁起
西光寺(谷中上三崎南町二〇番地)
本所彌勒寺末、佛到山無量壽院と號す。本尊不動明王、五大尊。慶長八年、開山妙音院宥義。(佐竹義篤次子、元和四年七月十七日寂)幕府より神田北寺町に於て寺地を給せられ、佐竹右京大夫義宣開基檀越として當寺を創建した。慶安元年同所幕府用地となるや、現所に替地を給せられ、翌二年佐竹修理大夫義隆堂舎を再建した。義隆はために中興開基と呼ばれる。時の住持は第四世宥鏡であつた。境内二千二百九十一坪の他に東叡山中堂領年貢地一段一畝十歩を持添地としてゐた。そして佐竹家の他に藤堂家の祈願所であつた。境内の韋駄天石像は同家の寄進する所で、韋駄天寺の俗稱は之に基くのである。(「下谷區史」より)
御府内寺社備考による西光寺の縁起
本所弥勒寺末 谷中不唱小名
佛到山無量寿院西光寺、境内拝領地2291坪内門前町家在之。
当寺之濫觴、慶長8卯、開山宥義於神田北寺町寺地拝領仕。堂舎佐竹右京太夫義宣公建立。慶安元子年11月、右寺地御用地ニ付、於当所旧地之通第4世宥鏡代拝領仕。慶安2年佐竹修理太夫義隆公堂舎再建仕候。
開山伝灯大阿闍梨法印宥義、俗姓佐竹大膳太夫義篤公二男。元和4年7月17日寂。
開基佐竹右京太夫義宣公、法号浄光院殿傑堂天英大居士。寛永10年正月25日卒。
中興開基佐竹修理太夫義隆公、法号鑑照院殿天山良応大居士。寛文11年12月5日卒。
中興第11世法印義明住職中、明和8年類焼後佐竹右京太夫義敦公、堂舎再建。旧禄100石之処、天明4年、玄米20石加増合120石給り
寛政12年正月、自坊類焼。佐竹右京太夫義和公堂舎再建。法号天樹院殿泰峨凌雲大居士、文化12年7月8日卒。(御府内寺社備考より)
西光寺の周辺図
参考資料
- 御府内寺社備考
- 「下谷區史」