妙祐山宗林寺|江戸十祖師の舟守祖師、本国寺末頭録所三ケ寺
宗林寺の概要
日蓮宗寺院の宗林寺は、妙祐山と号します。宗林寺は、徳川家康に仕えていた斎藤宗林が開基となり、舟守祖師を本尊として駿府に創建しました。徳川家康の入府に伴い、慶長年中に当寺も移転、神田昌平橋外に寺地を与えられましたが、後上野東寺町へ、元禄14年に当地へ移転したといいます。
舟守祖師は、日蓮上人が伊豆へ配流となった際に船守弥三郎へ与えられた祖師像で、江戸十祖師像の一つに数えられます。宗林寺は、江戸期には本所法恩寺、浅草幸龍寺とともに本国寺末頭録所三ケ寺の一つに数えられ、多くの末寺・塔頭を擁していました。
山号 | 妙祐山 |
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院号 | - |
寺号 | 宗林寺 |
住所 | 台東区谷中3-10-22 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 江戸十祖師の舟守祖師 |
宗林寺の縁起
宗林寺は、徳川家康に仕えていた斎藤宗林が開基となり、舟守祖師を本尊として駿府に創建しました。徳川家康の入府に伴い、慶長年中に当寺も移転、神田昌平橋外に寺地を与えられましたが、後上野東寺町へ、元禄14年に当地へ移転したといいます。舟守祖師は、日蓮上人が伊豆へ配流となった際に船守弥三郎へ与えられた祖師像で、江戸十祖師像の一つに数えられます。宗林寺は、江戸期には本国寺末頭録所三ケ寺の一つに数えられ、多くの末寺・塔頭を擁していました。
「下谷區史」による宗林寺の縁起
宗林寺(谷中初音町四丁目二六番地)
京都本圀寺末、妙祐山と號す。本尊妙法五字(多寶釋迦)はじめ(天正年中であらう)徳川家康に仕えた茶道齋藤宗林が駿府に開基し、玄龍院日辰を招いて開山とし、慶長年中四世大巧院日台の時、神田昌平橋外に引寺を命ぜられて移轉し、後、上野東寺町に轉じ、元禄十四年正月更に現地に徒つた。現地は當時日暮里村に屬し、螢澤といひ、螢の名所であつた。當時の祖師像は舟守彌三郎の守本尊と傳へられ、俗に舟守の祖師と呼ばれてゐる。なほ當寺は本所法恩寺、淺草幸龍寺と共に本圀寺派頭録所で、寺中に惠心院、圓立坊、了運坊、經王坊、本壽坊等があつた。(「下谷區史」より)
御府内寺社備考による宗林寺の縁起
京都六条本因寺末 谷中日暮村蛍沢
妙祐山宗林寺、境内拝領地3750坪。
開闢之事、往古於駿府
神君様御茶道御勤之斎藤宗林殿与申仁、開基二御座候。開山は斎藤氏帰依憎玄龍院日辰与申僧二而、天下安全為御祈祷起立有之由、其後四代目住持大巧院日台代、御入国之砌蒙厳命、慶長年中月日不知、神田昌平橋外引寺被 仰付候。当時原明地之処之由申伝候。然処追々御用地二相成候二付、上野東寺町与申所引寺被仰付候。唯今護国院辺之由申伝候。其後、元禄十四年之春谷中日暮村蛍沢地面拝領仕、其節引寺為手当金三百両拝領仕候。蛍沢之替地は板橋辺へ被下置候様申伝候。前々乗輿独礼之格式にて束本献上仕、且年中天下安全御祈祷誦経之巻数御札献上仕、年始御礼奉申上候。唯今以駿府二旧跡之宗林寺右之次第故、開山開基ノ年号月日等詳二相知不申候。慶長年中御当地へ引寺後、累年法儀異乱御座候而、無住中古き書物紛失仕、委細之儀は分兼申候。駿府之中寺町宗林寺も妙祐山与申候。一説二開基は植村駿河守様御先祖内膳様与申方にて、右御家多年法儀異乱之節、
御改宗ニ而品川如来寺へ御引取ニ相成、其節御廟等同寺江御引移二相成候由、其内御一霊本妙院殿与申御廟当寺二御残し御座候由、今以当寺二御座候。卒日年号等御石碑に記御座候。則宝永四年丁未六月廿日二御座候。右等之儀申伝へ斗二而旧記等無御座候。
当寺儀は、本国寺末頭録所三ケ寺之内二御座候。外両寺は本所法恩寺、浅草幸龍寺二御座候。
本堂南北10間東西9間。本尊三宝祖師。
右、本堂材木は極上之栂木二而白山 御殿御引弘之残木与申伝。尤年月は相知不申候。
鐘楼堂 鐘。(中略)
什物
1.高祖上人真筆曼荼羅
1.短刀
右は無銘。中心二題目彫付有之候。長九寸五分。
右は赤山石神町杉山弥次兵衛船守祖師像江相添奉納之由二御座候。
祖師堂、南北4間東西6間。
祖師、長7寸祖師自作木坐像。
右は里俗ニ船守祖師与申伝候。縁起左之通。
船守祖師縁起
谷中蛍沢宗林寺に安置し奉る祖師尊像ハ、弘長元年辛酉五月十二日高祖御年四拾歳にして鎌倉殿の御勘気を蒙り伊豆の国流刑の砌、船守弥三郎か家に入らせ給ふ。船守夫婦尊敬し奉る事、他に異なり、則弥三郎にあたへ給ふ御書曰、日蓮去ル五月十二日流罪の時その津に着候しに、いまた各をも聞及ひ参らず候処に、船より上り苦しミ候処に、懇にあたらせ給ひし事いかなる宿習たるらん。過去に法花経の行者にてわたらせたまへるか。今末法に船守弥三郎と生れて、日蓮をあわれミ給ふか。縦ひ男はさもあるべきに、女房の身として食をあたへ、洗足てうづ其外さも懇なる事、日蓮しらず。不思議とも申はかりなし。殊に三十日余ありて内心に法華経を信じ、日蓮を供養し給ふ事いかなることのよしなるや。かゝる地頭万民日蓮をにくミねたむ事、鎌倉よりも過たり。見る者ハ聞く人ハあたむ殊に五月の頃なれハ、米もとほしかるらんに日蓮を内々にてはこくミ給ふ事ハ、日蓮か父母伊豆の伊東かわるといふ所に生れ給ふか。法華経の第四ニ云清信士女供養於法師云々。法華経を行せん者をハ諸天善神等或ハ男となり、或ハ女となり形をかへさまさまに供養してたすくべしといふ経文なり。弥三郎殿夫婦士女と生れて日蓮法師を供養する事うたかひなし。先にまいらせし文に具に書之候し間、今ハ委しからす。殊に当地頭病悩に付て祈祷中へき由仰せ候ひし間、終に病悩なをり乃至此功徳も夫婦二人の功徳となるべし。船守の夫婦かくのことく信仰し奉る事言語に尽ず。故にその志の功なるを感しさせられ、祖師自我真影を彫刻し、真筆をもって弘長元年辛酉八月日授与伊豆国住船守弥三郎畢是我也我亦是也と御書付遊ハし、御判形をすへ御形見として夫婦に授給ふ尊像也。船守弥三郎守り奉れハ、後の人呼で船守の祖師と称し奉る。利益ますますあらたにして就中、疫病退治の祖師としる者は千里を遠しとせずして来て拝す。宜哉法華一宗の中、祖師の影像寺院檀越在々処々安置し奉る。尊像その数無量といへとも、此尊像をもって真影彫刻の初とす。霊験も又ならひなし。夫よりこのかた船守の家代々尊ミ奉りてありしに、爰に赤山石神町杉山弥治兵衛といへる先祖、不思議に此尊像を感得して生涯かたのことく信敬し奉る事年あり。加之、代々信するに奇瑞ありて、願ふに叶ハぬといふ事なく、いのるに忽ちしるしあり。かゝる霊像を田野の俗家に守り奉り、香花諦経全からす。その非礼ならん事をおそれ、檀緑をもとめて当寺に遷座し奉る者也。其節首題を中こに彫たる短刀一腰を祖師の宝前に棒、永く此寺の什物に奉納し畢。夫より以来毎年五月七日より十三日に至る迠、一七日伊東の御難を報恩会として万巻陀羅尼并説法修行いたし、当寺の会式とするも此謂也。抑又妙祐山宗林寺ハ往昔東照神君に仕へ奉し斎藤宗林といひし人、天下安全御武運長久を祈奉らんか為に駿河国府中に一宇を建立す。即宗林の建られしを以、宗林寺と号し二六時中怠らす御祈祷申奉りぬ。応跡今猶府中に存せり。其後公儀江戸の御城に移らせ給ひしかバ、宗林も供奉し来りて、尚此江府にも御祈祷所を造営せん事を公聴に達し奉るに、その忠誠のふかきを称せられ、則ち植村の某に仰て神田昌平橋の外に土地を賜り伽藍を御建立ありて、宗林の心のことく御祈祷をつとめき。然りといへとも、時うつり良ありて東叡山の側に引地仰せ付られ、亦復今此谷中蛍沢の辺りに引移りし寺也。三度地所をうつされ、辺土閑静の場末にしたがひ年々歳々二破壊零落に及へり。しかしなから
公儀御造営のまゝ二百年来火災水難なく、類まれなる精舎の一ッ也。いハんや船守祖師尊像を安置し奉り、謹て天下安全御武運長久をいのり奉り、伏而尊像の利益広大ならしめんため、午ノ二月廿八日より六十日の間開帳興行いたし、あまねく信男信女御施人の浄財を以、本堂祖師堂屋根修復并二諸字の破損を補ひ安置して修行せん事を庶幾耳。
妙祐山十八世嗣法 権律師日妙識印
荒木天満宮、坐像丈1尺2寸菅家自彫刻祖師堂仏壇ニ安置
大黒天、従伝教大師之由口述ニ候丈6寸5分
三十番神、丈4寸坐像
三光天子、丈1尺2寸像
妙正大明神、丈7寸立像
祖師堂北之方に小池御座候。則蛍沢旧跡与申伝候。文化14子年5月中、近衛左太臣殿御遊覧御座候。其外万国之遊子時々尋来候。依之、近代之住僧日行善人七絶一首
蛍沢難尋当日暮粛條寒院一灯孤遊人若問清光影変化山僧衣裏珠
往古之蛍沢之地所、則唯今当寺境内一同二御座候。裏門北之方ニさいかちの木御座候。至極之古木二而昌平橋外草創以来、引寺之節二移来候由、二百余年二御座候。世代之住僧之口述息災延寿之吉兆与申、大切二致し来候。
塔中四軒
恵心院、境内195坪。
開祖恵性院日潤大徳、天和二戊七月二日寂。
開基檀方之義は、大関杲次良殿御先祖裏方福昌院殿玄徳目幽大姉、宝永七寅閏八月十二日。
客殿、本尊宝塔両尊1尺坐像。祖師日蓮大菩薩長1尺3寸坐像。大黒天長8寸立像 鬼子母神長1尺立像。
了運院、境内210坪。
開祖了運院日芸大徳、貞享三寅四月十三日寂。
客殿、本尊宝塔両尊長1尺3寸坐像。祖師日蓮大菩薩長1尺5寸坐像。
円立院境内210坪。
開祖善性院日教大徳、正保元甲申八月廿九日寂。
中興充恩院日逞大徳、天明七丁末七月十日寂。
客殿、本尊宝塔両尊長1尺1寸2分坐像。四菩薩長1尺4分立像、祖師日蓮大菩薩長1尺5寸坐像。鬼子母神長8分立像、十羅剃女分長6分立像。
教妙院、境内150坪。
開祖顕能院日清大徳、寛永九壬申十月廿一日卒。
客殿、本尊三宝祖師。
中門之内、本地院与申塔中壱ケ院、当時地面二而空院二相成申候。其地面二壱間四面之稲荷社御座候。神体座像長ケ五寸。勧請年月相知不申候。
以上丙戊書上
御朱印拝領寺社帳、元禄十四巳三月改拝領地境内3545坪。新堀村宗林寺。御府内寺社帳
当時の書上にハ3750坪と記す由、寺僧話なり。捜索
江戸志云、砂子に此寺の境内を蛍沢といふとしるせり。即此所に至り里人に問ふに、すへて此辺ハ蛍多き所故、蛍沢といへりと答ふ。蛍沢十間はとの流にて池のはゞハ9尺はかりなり。本堂の右の方にあり。以上改撰江戸志(御府内寺社備考より)
宗林寺所蔵の文化財
- 銅鐘(台東区登録有形文化財)
銅鐘
宗林寺は妙祐山と号する日蓮宗寺院である。はじめは駿府(静岡県静岡市)に創建されたという。その年代は不明だが、天正年間(一五七三~九二)に江戸昌平橋外に移り、後に上の東寺町に移転したという。さらに元禄十四年(一七〇二)に当地へ転じた(「御府内寺社備考」)。
本鐘は銅製、鋳造。大きさは、総高一五三・二センチメートル、口径八六・六センチメートル。宝暦四年(一七五四)、鈴木播磨大掾藤原定久によって制作された。
本鐘を鋳造した、鈴木定久は江戸時代中期中葉に活躍した江戸の鋳物師であり、神田に居住したことが作例の銘文から知られる。定久の活動期間は宝暦年中(一七五一~六四)の短期間で、作例は銅鐘、銅常香盤、銅燈籠など八例が知られる。とくに銅鐘は、本鐘を含めて五例が知られるが、現存が確認できるのは二例にとどまる。
本銅鐘は鈴木播磨大掾藤原定久が制作した遺品の内、現存するものとして希少であり、その重要性はきわめて高い。さらに、近世の鋳物師の制作活動や、鋳造技術を知る上で貴重な遺品である。
平成二十九年三月に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。(台東区教育委員会掲示より)
宗林寺の周辺図
参考資料
- 御府内寺社備考
- 「下谷區史」