照妙院不動尊|我孫子市中峠にある真言宗豊山派寺院
照妙院不動尊の概要
我孫子市中峠にある真言宗豊山派寺院の照妙院は、滝前山と号し、不動尊で地元に知られています。照妙院不動尊の創建年代は不詳ながら元文5年(1740)の中峠村の記録に正明院として記載されていることから、1740年以前には創建されていたといいます。明治維新の後に廃寺となり、昭和41年に中峠下公民館の一部に保存されることになったといいます。一方不動尊は、延暦23年(804)空海が遣唐使の船中で製作したと伝えられ、寛平年中(889-898)平高望が東国へ赴任の際の守護仏として護持、滝前村に安置していたところ、寛和2年(986)の暴風雨で大破したため中峠村一里塚へ移転、その後当地へ遷ったといいます。新四国相馬霊場八十八ヶ所60番です。
山号 | 滝前山 |
---|---|
院号 | 照妙院 |
寺号 | - |
住所 | 我孫子市中峠1401中峠下公民館 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
照妙院不動尊の縁起
照妙院不動尊の創建年代は不詳ながら元文5年(1740)の中峠村の記録に正明院として記載されていることから、1740年以前には創建されていたといいます。明治維新の後に廃寺となり、昭和41年に中峠下公民館の一部に保存されることになったといいます。一方不動尊は、延暦23年(804)空海が遣唐使の船中で製作したと伝えられ、寛平年中(889-898)平高望が東国へ赴任の際の守護仏として護持、滝前村に安置していたところ、寛和2年(986)の暴風雨で大破したため中峠村一里塚へ移転、その後当地へ遷ったといいます。
「我孫子市史」による照妙院不動尊の縁起
照明院 中峠一四〇一
山号滝前山 真言宗 もと龍泉寺末
開創の年代、開山、開基など不詳であるが、元文五年(一七四〇)の中峠村の記録に「龍泉寺末正明院、弐反五畝拾八歩寺屋敷」と記されているのは当院のことで、創立の事情は法照院と同様と考えられる。
当時の境内にあった不動堂は二間四面と記されているので、現在の不動尊堂より規模が小さかった。そのほかに、「五反壱畝弐拾四歩、高根と申所、明神山、是ハ古戸村明神、九尺四面茅葺」とあるのも正明院(照明院)が管理していたお社であった。
安永四年(一七七五)の相馬霊場設立のとき、当院は第六十番伊予横峰寺写しとなり、本尊は不動明王とされた。その不動明王はいわば客仏であったが、信仰礼拝する者が多く、明治になって当院が廃寺となったのちは不動尊として独立するに至った。
当院の境内には、不動尊堂とは別に寄棟造茅葺の寮が維持されていたが、昭和三十五年四月十七日に、学校の旧校舎の一部を移して中峠下公民館とし、その中の一間に仏壇を設けて、旧照明院の仏像、什物を保管して今日に至っている。公民館は、大正初年の学校建築を知る貴重な建物である。
館内の仏壇は、壁に片流れの屋根をつけて仏堂に象ってある。中尊は木造大日如来坐像で、水晶の白毫及び玉眼入りで智拳印を結んでいる。造立年代はやや古く、もと照明院本尊であったと考えられる。その他、木造の六臂如意輪観音坐像も白毫及び玉眼入の古像とみられ、木造の阿弥陀如来立像や不動明王坐像も安置されていて、信仰は多面的である。
画像では、墨摺不動二童子図一幅の図中の岩座に「南命山」(龍泉寺)とあり、不動・二童子の梵字が書かれ、軸裏に「開眼明治四年旧暦二月四日龍泉寺住職少僧都比丘連城」と記されている。この図は中峠下地区光明真言講中の持廻りとされていたもので、収納のための竹筒がある。
その他、墨摺弘法大師像に光明真言を書き、「仏子法樹」と記したものや阿弥陀三尊来迎図並びに十三仏図で、紙背に「明治参拾壱年旧七月十六日、弁栄上人筆」と記したものなどが伝承されている。因みに弁栄上人は沼南町鷲野谷の高僧山崎弁栄(一八五九~一九二〇) で同地の医王寺に墓がある。
---
不動尊 中峠一四〇一
もと照明院管理
この不動尊について『湖北村誌』には、「伝ふる処に依れば、当不動明王御腹籠り秘仏は、寛平年中(八八九~八九八)平高望上総介に任せられ、東国へ赴任の時守護し来れるものにして、延暦二十三年(八〇四)空海僧正遣唐使に随ひ入唐の船中にて、一刀三礼の作と称せられし不動尊の像なりしと云ふ。高望幾多の戦場へ携帯し、其の武運を祈りつつありしが、手賀湖の風光を愛し、御堂を滝前村へ建立して安置せられしを、寛和二年(九八六)八月暴風雨の為め、堂宇破損せしかは、即ち本村一里塚の東側へ遷座し、尋て現在の位置へ移転せるものなり」と伝承が記されている。文中に現在の位置とあるのは照明院であり、一里塚の東側の故地も照明院の管理となっていた。
元文五年(一七四〇)の中峠村の記録をみると、「不動堂二間四面」とあるから、不動尊像は照明院に遷されたのにともない不動堂も建てられていたことが分るが、当初の不動堂は小規模な建物であった。
安永四年(一七七五)の相馬霊場設立に当っては、照明院が札所となり、霊場の本尊はこの不動明王とされた。やがて大師堂もできたが、照明院所属の大師堂というよりは、不動尊の大師堂というのが一般の認識となっている。
不動尊堂は、方三間、廻り縁及び向拝付、入母屋造、瓦葺で、正面中央間には半蔀を嵌める。昭和五十八年に新材を補って修復されたが、各部に旧材がのこされており、柱上の繰形のある舟肘木にも古いものがみられる。堂内は板敷で、中央奥の間に壇をつくり、左右の脇の間には神輿と祭礼道具が収納されている。なお、板床の中央に護摩壇がある。
不動明王は、玉眼入り、彩色の木造坐像で、像高八五cm、岩座の高さ四五cm、火焰光背は高さ一五八cmである。両眼を大きく見聞き、二本の歯牙はともに下方に向いている。頭髪は黄、身衣部分は漆黒、玉眼の瞳が大きく、白眼の部分には朱色がさしてある。昭和四十年の修復で、右肘先はそのときの補修とみられ、光背と持物は昭和五十八年に新補された。
堂内には、岩座の破損残片や童子形像の残欠がのこされていて、もとは不動明王二童子の像であったと想像される。童子形像の残欠は一体の背面部分だけであるが、残欠の高さは四九cmであって、一木割りはぎで内剥りを施している。
大師堂は、方一間、正面唐破風の向拝付、切妻造、瓦葺で、昭和五十九年に修復された。堂内安置の石造大師像の台石には「文化四卯三月、壱宇壱体、施主江戸小網町壱丁目、近江屋与四郎、仙蔵、山王村、願主前野口左衛門、同市右門、細井忠右門」と刻まれている。刻銘に「一宇一体」とあるのは、石造大師像一体の造立にともなって大師堂一宇も同時に建立されたことを示しているので、その点で特に注目すべきものである。さらにまた堂内には木造大師像も保存されている。両手先を失っているが、像高三三・五cm、彫眼の像で、衣の部分には朱彩の痕跡がある。石造像造立以前の作であろう。(「我孫子市史」より)
照妙院不動尊の周辺図
参考資料
- 我孫子市史