武石神社|千葉市花見川区武石町の神社

猫の足あとによる千葉県寺社案内

武石神社|千葉市花見川区武石町の神社

武石神社の概要

武石神社は、千葉市花見川区武石町にある神社です。武石神社は、武石に居城をおいた武石三郎平胤盛(千葉介常胤の三男)。武石三郎平胤盛は、父常胤没後三代王神社を創建、その後裔は愛宕神社や長胤寺を建立しています。天文7年(1538)の第一次国府台合戦に敗れ武石氏は嫡流廃絶しましたが、残った武石氏の末裔により「おたけし様」と称して武石城跡に代々の神霊が祀られてきたといいます。

武石神社
武石神社の概要
社号 武石神社
祭神 武石三郎平胤盛朝臣、並びに武石氏代々の神霊
相殿 -
境内社 三峰神社
住所 千葉市花見川区武石町1-336-1
祭日 -
備考 -



武石神社の由緒

武石神社は、武石に居城をおいた武石三郎平胤盛(千葉介常胤の三男)。武石三郎平胤盛は、父常胤没後三代王神社を創建、その後裔は愛宕神社や長胤寺を建立しています。天文7年(1538)の第一次国府台合戦に敗れ武石氏は嫡流廃絶しましたが、残った武石氏の末裔により「おたけし様」と称して武石城跡に代々の神霊が祀られてきたといいます。

境内掲示による武石神社の由緒

武石胤親墓
幕張町大字武石に在りて武石城址の内にあり。圃中小塚あり上に椎樟等の雑樹を生ず。小石祠あり傍に古墓の壊石あり。土地の人派「おたけ様」と稱す。即ち武石様の畧にして武石胤親(三郎又は蔵人丞)の墓なりとなす。其の西方四十間餘の處又小塚あり、竹篠叢生す。これ其の妻の墓なりとなす。蓋し胤親は足利義明に事へ其の昔国府臺の戰に討死せしと云ふ。(境内掲示より)


境内掲示による武石神社の由緒

武石氏略記
当社の主祭神、武石三郎平胤盛朝臣命は、千葉介常胤の三男として久安二年(西暦一一四六年)に生まれ、承安元年(一一七一年)十一月、武石に居城したと伝えられています。千葉六党として、源頼朝の平家追討に従軍し、文治元年の千葉開府、さらに、鎌倉幕府の開府に貢献しています。
建仁元年、父常胤没し、翌建仁二年(一二〇二年)に、郷中安全の守護神として、明神神社(現、三代王神社)を創建しています。胤盛は、建保三年(一二一五年)六月十三日に七十歳で亡くなりました。
貞永元年(一二三二年)、胤盛の後裔によって、先祖菩提の為、字須賀原に、千葉城の方角に向けた愛宕社石碑が建立されました。常胤の祥月命日、三月二十四日には、献供が続けられています。
弘長二年(一二六二年)、武石長胤が長作を領し、弘長年間に長胤寺を建立しました。その頃の武石氏は、奥州の亘理郡なども領有していました。
天文七年(一五三八年)の、第一次国府台合戦に於いて、武石胤親が討死し、武石氏は途絶えてしまいました。
武石神社由緒記
武石氏嫡流没後、里見家などに残った武石氏の末裔達により、祖先顕彰と供養の為、武石城跡に代々の神霊が祀られ「おたけし様」と称されてきました。
当地には、古くから石塚が祀られていましたが、神社の創建年代は不詳です。
宝暦六年(一七五六年)に、武石氏末裔で上総国天羽郡の、武石勝左エ門胤清翁が、武石神社に詣でて奉賽したと伝えています。この翌年、当時の村人達は、武石氏や、その後の領主、馬加氏を回顧し、明神の元祭司であった、馬加康胤家臣小川采女(うねめ)の子孫を神主として招き、祭儀を執り行いました。
昭和十五年(皇紀二千六百年奉祝の年)、胤清翁の子孫、武石豊次胤興翁当社に参拝し、小川定右衛門氏の協力を得て社殿を造営、鳥居と社号標も建てられました。現社殿の社号額は、当時のものです。鳥居はその後に建て替えています。
平成十九年十月、社殿を改築造営し、参道の敷石が敷設されました。
御造営を奉祝して、奉賛者芳名碑を建立し、この由緒板を作成しました。
三代王神社社務所 宮司 小川憲道 撰(境内掲示より)


武石神社の周辺図