本念寺|市原市福増にある日蓮宗寺院

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本念寺|市原市福増にある日蓮宗寺院

本念寺の概要

市原市福増にある日蓮宗寺院の本念寺は、福増山と号します。本念寺は、延文5年(1360)に天台宗寺院として創建、野呂妙興寺貫主善能院日圓上人が当寺住職と問答をして当寺住職が敗れたことから、文禄元年(1592)日蓮宗に改宗、以後江戸期は妙興寺貫主の隠居寺となっていたといいます。

本念寺
本念寺の概要
山号 福増山
院号 -
寺号 本念寺
住所 市原市福増615
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 -



本念寺の縁起

本念寺は、延文5年(1360)に天台宗寺院として創建、野呂妙興寺貫主善能院日圓上人が当寺住職と問答をして当寺住職が敗れたことから、文禄元年(1592)日蓮宗に改宗、以後江戸期は妙興寺貫主の隠居寺となっていたといいます。

「市原郡誌」による本念寺の縁起

福増山本念寺
福増山本念寺は本村福増區にあり、その創立を尋ぬれば遠く北朝の延文五庚子年九月の建立にして何人の寄附によりて成りしやは不明なるも、傳へ聞く元天台宗なりしも後陽成帝の文禄元辰年(皇紀二二五二年)三月の時の住僧某と野呂の妙興寺貫主たる善能院日圓上人と問答の結果、本宗に歸し以来現今に至る、その證たるや當山に阿彌陀坂とて今尚ほ存す、一説に曰く新堀法光寺開山本成院日念上人は近郷近在の六萬人に法を授くと云ふ、福増の人々信仰の念厚く上人に歸依し、遂に上人より本成院の「本」及び日念上人の「念」の二字を加へて本念寺と定めたりと云へり、然れども前説は眞に近からん哉、抑も開山善能院日圓上人は下総野呂本山妙興寺の第三祖にして、幼より艱難を凌ぎ勤學の結果學問抜群名稱周偏し給ふ論議朗詮と申傳へられたる程の人なれば、歸依の檀越寺の改宗する者等枚擧に遑あらず、當山の如きは其の一例たり、晩年本念寺に来りて餘命を送り、讀經三昧に入り修行せらるゝこと十有餘年の後、明正帝寛永十四年(皇紀二二九七年)八月二十八日遷化となり、爾来妙興寺貫主の隠居寺となれり開山より爾来三百數十年間、師檀共に治平に慣れ軌・則を墨守して變通を知らず、諸堂廢毀に及ぶも修むる心なく法燈の光将に滅せんとせしが、時の住職第二十六代遠明院日道上人深く之を慨嘆して改革を喚起せり、その際門前の薬師堂玄覺坊三門等取拂ひて庫裡を改築し本堂を修理し、歴代の墓碑を建立し塔堂爲に一變せり、當時人呼んで中興開山と稱しけり、是を當山の沿革と爲す、法會は例月十二日講開催、その際讀經法話す、三ヶ月毎に説教あり、四月八日に釋尊誕生會を行ひ、八月十七日施餓鬼會を擧げ、八月二十八日開山會を執行し、十一月十六日宗祖御會式ありて、共に説教東京より布教師来りて法話す、寶物としては宗祖御眞跡壽量品一行一軸、傳教御眞跡涅槃經六行一軸・日朝師御眞跡安来行品一軸・釋尊御涅槃像一軸・猩々緋金赫縫取一返首題等、本堂は間口七間奥行六間、庫裡間口六間奥行五間、番神堂四尺四方、鐘堂一間半四方にして、田八段八畝十歩、畑一町二段十七歩、山林凡そ一町九段六歩を有す、(「市原郡誌」より)

「日蓮宗寺院大鑑」による本念寺の縁起

延文五年(一三六〇)九月創立、もと天台宗だったが文禄元年(一五九二)三月住僧が下総野呂の妙興寺貫主日円上人と問答の結果、敗北してから日蓮宗に改宗し、日円上人を開山とする。上人は寛永十四年(一六三七)八月遷化、以後は妙興寺貫主の隠居寺となる。(「日蓮宗寺院大鑑」より)


本念寺の周辺図


参考資料

  • 「市原郡誌」
  • 「日蓮宗寺院大鑑」