長谷山安国寺|日蓮聖人三度滞留の霊跡
安国寺の概要
市川市曽谷にある日蓮宗寺院の安国寺は、長谷山と号します。安国寺は、曽谷の領主、曽谷教信(法蓮日礼)が日蓮聖人に帰依、日蓮聖人を開山に仰ぎ、館の側に当寺を文応元年(1260)に建立したといいます。康正2年(1456)の曽谷氏滅亡に伴い当寺も衰廃したものの、寛文9年(1669)に18世日順上人が再興しています。当寺の妙見大士は、日蓮聖人遊化の際に開眼、延寿祖師像は法蓮日礼が身延山登詣の際に日蓮聖人が開眼したもので、日蓮聖人が三度滞留された霊跡です。
山号 | 長谷山 |
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院号 | - |
寺号 | 安国寺 |
本尊 | 曼荼羅 |
住所 | 市川市曽谷1-35-1 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
安国寺の縁起
安国寺は、曽谷の領主、曽谷教信(法蓮日礼)が日蓮聖人に帰依、日蓮聖人を開山に仰ぎ、館の側に当寺を文応元年(1260)に建立したといいます。康正2年(1456)の曽谷氏滅亡に伴い当寺も衰廃したものの、寛文9年(1669)に18世日順上人が再興しています。当寺の妙見大士は、日蓮聖人遊化の際に開眼、延寿祖師像は法蓮日礼が身延山登詣の際に日蓮聖人が開眼したもので、日蓮聖人が三度滞留された霊跡です。
境内掲示による安国寺の縁起
長谷山安国寺
曽谷の領主、曽谷教信が日蓮聖人に帰依し、立正安国に因んで館の傍らに一寺を建てたのが、この長谷山安国寺で、文応元年(一二六〇)のことと伝えています。
教信は後に出家し、日蓮から法蓮日礼の法号を授けられました。そして曽谷一族のことを子息胤継に託すと、自らは安国寺に住して妙見菩薩を祀り、千葉一門の安泰を祈願しました。
その後、大野に一寺を建て、法号をとって曽谷山法蓮寺と名付け、そこに移り住みましたが、正応四年(一二九一)五月一日、六十八歳でこの世を去りました。
康正二年(一四五六)曽谷氏は滅亡しますが、その後は境内も荒れ果て、残されたものは妙見堂のみであったといいます。そして寛文九年(一六六九)に至り、諸堂の再建にあたったのが一八世日順上人でした。
延享元年(一七四四)四月、江戸の儒学者服部南郭と、書家松下雨石(烏石)は安国寺境内に王義之の像を安置した宮を建て、鳥居には「晋右軍王公廟」と雨石の書になる石額を掲げ、その由来を刻した石碑も建てました。この石額は寛政三年(一七九一)の暴風で損傷し、石碑も紛失してしまいました。
曽谷の地に王義之の宮が建てられたことは、国府台の古戦場や、万葉集の伝承を慕って真間の地を訪れた文人墨客の中には、曽谷まで足を延ばし、安国寺や曽谷氏の館跡を尋ねる人も多かったからだと思われます。(市川市教育委員会掲示より)
「日蓮宗寺院大鑑」による安国寺の縁起
文応元(1260)年11月の創立。開山宗祖。開基曾谷教信。達師法縁、住職は堀の内法縁。曽谷山城主入道教信が宗祖に帰依し当山を建立。文永元年宗祖遊化の際当山の妙見大士を開眼、滞留三度の霊跡である。教信は宗祖像を刻し建治元年に身延に登詣、宗祖が開眼された延寿祖師象(背銘の仏所護念法蓮作之の八字は宗祖直筆)を祀る。24世観是院日禅は中山安世院19世へ。29世甘露院日泉台東区山谷正法寺へ。34世妙雲院日威は銚子妙福寺29世へ。37世住禅院日城は谷中宗延寺へ。39世玄妙院日淳は堀の内妙法寺22世へ。付近に曽谷城址あり。(「日蓮宗寺院大鑑」より)
「市川市内の寺院明細帳」による安国寺の縁起
安國寺
曽谷城主中老日礼聖人開闢(「市川市内の寺院明細帳」より)
安国寺の周辺図
参考資料
- 「日蓮宗寺院大鑑」
- 「市川市内の寺院明細帳」