猫の足あとによる千葉県寺社案内

萬福寺|柏市増尾にある真言宗豊山派寺院

萬福寺の概要

真言宗豊山派寺院の萬福寺は、医王山安養院と号します。萬福寺は、権大僧都法印祐見和尚が寛永15年(1638)に創建(法流開山)したと伝えられ、江戸期には地内の諸社の別当を勤めていたといいます。当寺阿弥陀堂は寛永2年(1625)の創建と伝えられ、阿弥陀堂本尊阿弥陀如来坐像は、千葉県文化財に指定されています。境内の大師堂は、東葛印旛大師八十八ヶ所霊場53・67番、下総四郡八十八ヶ所霊場67番です。

萬福寺
萬福寺の概要
山号 医王山
院号 安養院
寺号 萬福寺
住所 千葉県柏市増尾4-14-1
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 -



萬福寺の縁起

萬福寺は、権大僧都法印祐見和尚が寛永15年(1638)に創建(法流開山)したと伝えられ、江戸期には地内の諸社の別当を勤めていたといいます。当寺阿弥陀堂は寛永2年(1625)の創建と伝えられ、阿弥陀堂本尊阿弥陀如来坐像は、千葉県文化財に指定されています。

「柏市史」による萬福寺の縁起

万福寺
増尾村字門前に所在。医王山安養院と号し、江戸時代は鰭ヶ崎村東福寺の末寺であった。本尊は薬師如来。当寺については天保八年(一八三七) の「寺社書上」があり、江戸時代後期の様子が知られる。これによると開基は不明、建物は客殿・庫裡・寝所・表門・裏門・雑庫・行基作と伝える阿弥陀如来を安置した堂・勢至菩薩を安置した道心の住む寮・清滝権現の社があった。また天神宮の石宮(石祠)・如意輪観音の石像・子安観音の石像もあった。そして村内の妙見宮・弁才天石宮・牛頭天王・雷神宮・大六天宮・庚申塔塚・墓地傍らの地蔵堂(少林寺と合支配)・墓地傍らで平安期に作られた阿弥陀如来を安置した道心寮を別当寺として支配していた。滅罪祈願両様の檀家六〇軒・祈願檀家三五軒を有していた(滅罪の檀家とは葬式・法事を頼む檀家)。さらに「一法流始祖 祐見 元禄八乙亥年九月」とあり、これは祐見の没年かと思われる。諸什物として記されているのは両大師像・不動明王像・十一面観音像・毘沙門天像・両界曼荼羅図二幅・十三仏図・光明豊茶羅図・前具・護摩器・護摩壇(脇机共)・五具足・無常用仏具・壇鏡二面・釈状(錫杖か)・半鐘・打金(鉦か)・饒鉢・御法流箱入・過去帳・寺附印形である。この記録から当時の農村の一般的な寺院の概況が知られる。これを記した住職は法印寛住で、文政一一年(一八二八)に藤心村の宗寿寺から転任した。同書上によれば、寛住は総本山長谷寺小池坊(奈良県桜井市)に一〇か年留学し、天保四年に「御許状」を頂戴したという。(「柏市史」より)

「柏市史資料編土・千代田村誌」による萬福寺の縁起

万福寺
土村増尾字門前千三百四十四番地ノ一ニ在リテ、山号ヲ医王山ト称シ、真言宗新義派ニシテ、東葛飾郡流山町大字鰭ヶ崎東福寺ノ末寺ナリ。薬師如来ヲ本尊トス。人皇百八代明正天皇ノ御宇寛永十五年(皇紀二千二百九十八年)十月権大僧都法印祐見和尚ノ創立ナリト云フ。其ノ後霊元天皇ノ御宇延宝三年(皇紀二千三百十五年)三月烏有ノ災ニ罹リ、堂宇宝物縁起等悉ク灰燼ニ帰セリ、祐見和尚大ニ憂ヘ、信徒ノ寄附ヲ仰ギ、遂ニ天和二年(皇紀二千三百四十二年)堂宇ヲ再建ス。庫裡ハ、二十世藪崎蓮実和尚ノ代、明治十九年(皇紀二千五百四十六年)十二月再建シ、何レモ今ニ至ル。
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阿弥陀堂
土村増尾万福寺境内ニ在リ。阿弥陀如来ヲ本尊トス。人皇百十二代東山天皇ノ御宇寛永二年(皇紀二千三百六十五年)四月ノ創建ニシテ、開山ハ、権大僧都法印祐見和尚ナリト云フ。古来ヨリ檀家葬式ノ際、此ノ堂ニ於テ法要ヲ行フノ霊場ニシテ、現在建物ハ、梁間三間桁行三間半木造萱葺向拝付本堂一棟ナリ。 (「柏市史資料編土・千代田村誌」より)


萬福寺所蔵の文化財

  • 木造阿弥陀如来坐像(千葉県指定文化財)
  • 土小学校のはじまり

木造阿弥陀如来坐像

江戸時代の寛永2年(1625)の創建と伝えられるこの阿弥陀堂には、本尊として木造阿弥陀如来坐像が祀られてきました。阿弥陀如来は、人々を西方極楽浄土へ導く仏様とされています。
本像は、像高88.1cmの等身の坐像で、左肩を覆い、右肩に浅く懸かる大衣を着け、両指で来迎印を結び、右足を上にして結跏趺坐します。
カヤ材を用い、頭・体幹部を通して堅一材より彫出し、両脚部は横木一材、体幹部で前後割り、内部を刳りぬいて、再び矧ぎ合わせる『一木割矧造(寄木造)』と称される方法で造られています。
定朝様式の穏やかな顔立ち、全体的にゆるやかな面のとり方、単純な衣文構成、衲衣のひだの彫り、膝前の形式化した処理などが特徴で、裳先を亡失し、肉髻珠や白毫などの小材が後補されている以外は原型を保っています。
像内の左腰脇辺の小補材からは「南相馬増尾万福寺時住澄照/南無阿弥陀仏」の陰刻銘が確認されています。
本像は、そのやや質実な作風やヒノキ以外の用材を使用することから地方での製作になるものと考えられ、平安時代後期(12世紀)の作と推定される貴重な例といえます。
なお阿弥陀堂は、春と秋のお彼岸に開帳されます。(柏市教育委員会掲示より)

土小学校のはじまり

江戸時代も末期になると、市域にも学問に対する関心が高まり、村々には庶民の教育機関として「寺子屋」が村の寺院などに開かれました。寺子屋は、6・7歳~12・13歳の子供たちに読み・書き・算盤などを教えるもので、当時、市内では増尾村の万福寺を始め、花野井や布施の寺院に置かれていました。当時の月謝(授業料)は一人当たり金一銭および白米一升といわれています。
時代が変わり明治時代になると、明治5(1872)年に「学制」が公布され、「必ず邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」という理念のもと、広く庶民に教育の場が開かれましたが、「土村誌」には、同年、早くもここ万福寺に「増尾学校」が開設されたことが記されており、以後、これに呼応するように他の村々でも次々に学校が設立されます。
「明治5年、増尾邑万福寺ヲ仮校舎トシテ増尾学校ヲ創設シ、児童ヲ収容シテ小学教育ヲシタ」(「土村誌」より)
開校翌年の生徒数は48人、教師1人であった増尾小学校は、幾多の時代の変遷を経て、現在、柏市立土小学校として受け継がれています。(柏市教育委員会掲示より)

萬福寺の周辺図

参考資料

  • 「柏市史」
  • 「柏市史資料編土・千代田村誌」