慧日寺跡。耶麻郡磐梯町の名所旧跡

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慧日寺跡。国指定史跡、町により復元された金堂・中門

慧日寺跡の概要

慧日寺跡は、耶麻郡磐梯町にある名所旧跡です。慧日寺跡は、徳一菩薩が平安時代初期に開創・明治初年に廃寺となった慧日寺の旧境内の一部で、昭和45年に国史跡に指定され、更に昭和61年に追加指定を受け、その規模は15万平方メートルにも及びます。磐梯町の史跡整備事業により、金堂・中門が復元整備され、本尊の本尊丈六薬師如来坐像も東京藝術大学大学院との研究連携により復元、入仏安置されています。また資料館には、東北地方・会津地方に仏教文化を開花させた慧日寺の歴史や、慧日寺跡復元に至る経緯などを詳細に展示しています。

慧日寺跡
慧日寺跡の概要
名称 慧日寺跡
みどころ -
区分 国指定史跡、日本遺産「会津の三十三観音めぐり」の構成文化財
住所 耶麻郡磐梯町
備考 -



慧日寺跡の由緒

慧日寺跡は、徳一菩薩が平安時代初期に開創・明治初年に廃寺となった慧日寺の旧境内の一部で、昭和45年に国史跡に指定され、更に昭和61年に追加指定を受け、その規模は15万平方メートルにも及びます。磐梯町の史跡整備事業により、金堂・中門が復元整備され、本尊の丈六薬師如来坐像も東京藝術大学大学院との研究連携により復元、入仏安置されています。

教育委員会掲示掲示による慧日寺跡について

史跡慧日寺跡
慧日寺は徳一大師によって平安時代初めに開かれた寺で、磐梯山を中心に栄えたのは会津の山々を背景とする山岳信仰と祖霊崇拝の土壌があったからだと思われます。
平安時代の中頃には最も興隆をきわめ、その勢力は寺僧三百・僧兵数千・子院三千八百坊にものぼり、支配権は会津はもとより新潟県の一部まで及んだと言われます。
しかし、源平合戦への参戦と敗北、伊達政宗の侵攻などたび重なる戦禍に見舞われ、わずかの建物を残してすべて焼失しました。
江戸時代には歴代の会津藩主によって保護されたものの明治初年の廃仏毀釈によって廃寺となりました。
慧日寺跡は遺構がよく保存されているため昭和四十五年に国史跡に指定され、更に六十一年に追加指定を受け現在その調査・研究が続けられています。広さ約十五万㎡の史跡内には多くの建物礎石が露出し、往年の慧日寺の一端をかいま見ることが出来ます。(文化庁・磐梯町教育委員会掲示より)

磐梯山ジオパーク協議会掲示による慧日寺跡の由緒

慧日寺跡
慧日寺は猫魔火山の南麓にあり、猫魔火山を造っている岩石の礫・砂が堆積して形成された扇状地上に立地しています。
平安時代の初めに奈良の高僧徳一菩薩によって開かれた寺院であり、平安時代以来さまざまな文物将来の拠点となったことから、会津仏教文化のいしずえを築いた寺としても知られています。明治の初めに廃寺となり、寺跡は「慧日寺跡」として昭和45年に国の史跡に指定されました。以来、長年にわたり史跡整備事業が進められています。
また、史跡の東方に隣接する磐梯神社は、もともと慧日寺の鎮守として祀られていた磐梯明神を起源とし、慧日寺の廃寺後に神社として独立したものです。1200年の伝統を有する古社として、巫女舞や舟引き神事などかつての慧日寺の年中行事を継承しています。(磐梯山ジオパーク協議会掲示より)

境内掲示による慧日寺跡について

慧日寺跡
慧日寺は、今からおよそ1200年前の平安時代初期、南都(奈良)で法相教学を学びながら、理想の修業の地を求め、若くしてこのみちのくの地磐梯へと移った徳一という僧によって開かれた。徳一は後に菩薩・大師とも称され会津仏教文化の礎を築き、最澄と繰り広げた「三一権実論争」は有名である。
また、慧日寺は平安時代を通じて勢力を拡大し、最盛期には会津一円のみならず、越後の一部まで領したと伝えられている。
明治2年(1869)に廃寺となった寺跡は、昭和45年(1970)に国史跡に指定された。磐梯町の史跡整備事業により、平成21年度までに金堂・中門など中心伽藍が復元整備され、古代儀礼空間が悠久の時を越えて甦った。(「極上の会津プロジェクト協議会”会津の三十三観音めぐり”ストーリー」掲示より)


徳一廟について

徳一廟
徳一廟
慧日寺を開創した徳一の墓と伝えられる平安時代の石塔です。永く三層の状態でしたが、昭和五〇年代に行った解体修理に伴う発掘調査の結果屋根石が見つかり、本来は五層の石塔であったことが分かりました。
安山岩製で、初重のみ軸部を別石え造り、そのほかは屋根石の上に上層の軸部を造り出して重ねています。屋根石の表面には錣葺を表現した段加工がみられ、さらに軒先の四隅には風鐸をつり下げたと思われる孔が残っています。
昭和二〇年頃の大雪え石塔が倒壊した際に、軸部の納入孔から九世紀代の土師器の甕が発見されました。これによって、徳一の寂年代からさほど隔たりのない頃の造立と推定されています。
かつて、周辺の住民が石塔を削り、薬として服用したという風習がありました。これは、慧日寺の本尊であった薬師如来の信仰によるものと思われます。解体修理後には覆堂を建設し、保存が図られています。(磐梯町教育委員会掲示より)

薬師堂について

薬師堂
会津には多くの薬師堂がありますが、慧日寺は現在でも会津五薬師のひとつ、東方薬師として親しまれています。
『新編会津風土記』には観応元年(一三五〇)「大寺の薬師安座」とあり、金堂に薬師仏を安置したことが分かります。中世以降の慧日寺は薬師信仰に基づき、治病延命・産育・子孫繁栄を祈願する民間信仰の寺としても栄えていきました。
天正十七年(一五八九)の磨上原合戦で慧日寺は伊達軍によって金堂のみを残してすべて焼かれ、その金堂も寛永三年(一六二六)三月の火災により失われ、十二年後その跡地に薬師応が建立されました。
明治初年の廃仏毀釈によって、薬師堂は磐梯神社として用いられたこともあります。
不幸にもこの薬師堂は明治五年(一八七二)六月の火災で、本尊の丈六薬師仏の仏頭を残して焼失、残った仏頭も明治十二年の火災で失われました。
現在の薬師堂は、地元住民の信仰心により明治二十二年に再建されたもので、桁行・梁間とも三間の寄棟造りの建物です。(文化庁・磐梯町教育委員会掲示より)

慧日寺跡の周辺図


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