磐梯山恵日寺。徳一菩薩開創、明治37年に寺号を継承
恵日寺の概要
真言宗豊山派寺院の恵日寺は、磐梯山と号します。恵日寺は、明治初年廃寺となった(旧)慧日寺を、塔頭だった観音院が法燈を受け継いで明治37年に寺号を継承、大正2年に堂塔を修復して再興したといいます。(旧)慧日寺は、平安時代初期に法相宗の徳一菩薩が開創、往時には寺僧三百・僧兵数千・子院三千八百坊を有していた巨大寺院でしたが、源平合戦で平氏に加担、以後勢力は減退したものの、明治維新までは末寺を多数擁した著名寺院です。
山号 | 磐梯山 |
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院号 | - |
寺号 | 恵日寺 |
住所 | 耶麻郡磐梯町大字磐梯本寺上4590 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
恵日寺の縁起
恵日寺は、明治初年廃寺となった(旧)慧日寺を、塔頭だった観音院が法燈を受け継いで明治37年に寺号を継承、大正2年に堂塔を修復して再興したといいます。(旧)慧日寺は、平安時代初期に法相宗の徳一菩薩が開創、往時には寺僧三百・僧兵数千・子院三千八百坊を有していた巨大寺院でしたが、源平合戦で平氏に加担、以後勢力は減退したものの、明治維新までは末寺を多数擁した著名寺院です。
境内掲示による恵日寺の縁起
恵日寺
恵日寺は磐梯山と号し、真言宗豊山派に属します。
古く古絵図にあり、明治初年の廃仏毀釈によって一時廃寺となりました。塔頭であった観音院のもとに法燈をうけつぎ明治三十七年五月寺号の官許を得、更に大正二年「磐梯山恵日寺」として堂塔の修復をし再興の緒として今日に至っています。
たび重なる火災や廃寺のために丈六の薬師如来像、四天皇より下賜された銅印・瑠璃尺など多くの貴重な宝物類を散逸しました。
しかし、現在残された文化財の中で「白銅三鈷杵」が国重要文化財として指定され、「鉄鉢」が国重要美術品として認定されています。
「白銅三鈷杵」は忿怒形三鈷ともいわれ正倉院に二口、日光二荒山発掘物の一口に見られるのみで、最古の形式をあらわし徳一の請来した所持品と考えられる貴重な文化財です。
「鉄鉢」は永享七年の銘があり高台に皿型をもつのは例がありません。
「絹本著色恵日寺絵図」は国重要美術品認定・県重要文化財として指定され、往時における伽藍の盛況をしのぶことができます。
このほか「紙本墨書田植歌」や「日光・月光菩薩面」「薬師如来光背化仏一具・七軀」が県の重要文化財として指定されています。
現恵日寺の本堂は元禄十五年(一七〇三)に建立されたもので、三百年の星霜を経た建造物です。
廃寺にされた後に旧塔頭を元に「恵日寺」を復興しましたが、これと区別して、国指定の史跡を「慧日寺」と書くことにしています。(文化庁・磐梯町教育委員会掲示より)
恵日寺所蔵の文化財
- 白銅三鈷杵(国指定重要文化財)
- 鉄鉢
- 絹本著色恵日寺絵図(国重要美術品認定・県指定重要文化財)
- 紙本墨書田植歌(県指定重要文化財)
- 日光・月光菩薩面(県指定重要文化財)
- 薬師如来光背化仏一具・七軀(県指定重要文化財)
厩嶽山馬頭観音堂
厩嶽山頂より五十米程下の堂宇に馬頭観音菩薩坐像が祀られ、旧暦六月十六・十七日の祭礼には多くの参詣者で賑わった。今は訪れる人も少なくなったので御厨子を山上より移し、この地に安置することにした。(境内掲示より)
如蔵尼の墓
如蔵尼のお話は『今昔物語集』や『元享釈書』など見ることができます。如蔵尼は俗名を滝姫といい、平安時代中期、関東一円を席巻した平将門の三女でした。姿色美麗な滝姫は、父の死後彼が信仰を寄せていた恵日寺の傍らに小さな庵を結び、ひっそりと暮らしていました。ある時病で命を落とし、父の罪業のため地獄に堕ちますが、地蔵菩薩の加護によって蘇ります。仏縁に感謝した滝姫は名を如蔵尼と改め、その後は地蔵菩薩に帰依し八十歳過ぎまで長寿を全うしたとのことです。「如蔵尼之墓」と刻まれたこの碑は、会津藩の儒学者である阿部井澹園が『元享釈書』の記述をもとに草したもので、享和二年(一八〇二)に建てられました。(境内掲示より)
恵日寺の周辺図
参考資料
- 「福島県耶麻郡誌」