萬松山天寧寺。新撰組近藤勇の墓、会津七福神の毘沙門天
天寧寺の概要
曹洞宗寺院の天寧寺は、萬松山と号します。天寧寺は、傑堂禅師を開山に迎えて蘆名盛信が応永20年(1413)に創建、江戸期には、会津藩曹洞宗の僧録司で12支院・末寺33ヶ寺を擁していたといいます。明治元年の戊辰戦争で焼失したものの、同年再建したといいます。境内にある新撰組近藤勇の墓は、三条大橋にさらされた近藤勇の首(或いは遺髪などか)を何者かが持ち去り、京都守護職容保公の支配下だったことから当地に埋葬されたといいます。会津七福神の毘沙門天です。
山号 | 萬松山 |
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院号 | - |
寺号 | 天寧寺 |
住所 | 会津若松市東山町大字石山天寧208 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
天寧寺の縁起
天寧寺は、傑堂禅師を開山に迎えて蘆名盛信が応永20年(1413)に創建、江戸期には、会津藩曹洞宗の僧録司で12支院・末寺33ヶ寺を擁していたといいます。明治元年の戊辰戦争で焼失したものの、同年再建したといいます。境内にある新撰組近藤勇の墓は、三条大橋にさらされた近藤勇の首(或いは遺髪などか)を何者かが持ち去り、京都守護職容保公の支配下だったことから当地に埋葬されたといいます。
「北会津郡誌」による天寧寺の縁起
曹洞宗萬松山天寧寺
東山村石山ニアリ応永二十年蘆名盛信之建立ニシテ能登国総持寺ヲ本山トシ観世音菩薩ヲ本尊トス明治元年兵火ノ為焼失シ同年再建ス(「北会津郡誌」より)
「若松市史」による天寧寺の縁起
(市外寺院)天寧寺
曹洞宗に屬し、萬松山と號し、北會津郡東山村にあり。本山は越後村上耕雲寺にして、應永二十八年芦名盛信の開基にて傑堂の開山なり。會津曹洞一派の僧録司にて末寺三十三ヶ寺あり。昔は十二の支院(聴観軒・如雲莽・雲亭莽・隣香莽・長林莽・退月莽・連峯莽・頁如莽・善徳院・寶昌院・巌松院・定林莽)ありしが、今僅に善徳・寶昌の二院存するのみ。(「若松市史」より)
天寧寺所蔵の文化財
- 萱野権兵衛父子の墓
- 近藤勇之墓
萱野権兵衛父子の墓
父権兵衛は、明治戊辰戦争の時、会津藩の国家老で事実上の責任者として激務にあたり、その後敗戦処理に際しては、城明け渡し、藩主父子の助命嘆願などに力を尽し、自ら進んでその責任をとり自害した。
子郡長正は、権兵衛の次男で明治3年小笠原藩(福岡県)の育徳館に留学し教育を受けた。ある日長正は郷愁を覚え母へ手紙を書いた。後に届いた母からの戒めの手紙を落として、小笠原藩士の子弟に大衆の面前でののしられた。長正は会津武士の面目を保つため切腹して屈辱にこたえた。ときに16歳であった。(境内掲示より)
近藤勇之墓
新撰組隊長近藤勇は、戊辰の役で奮戦中千葉で力つきついに薩長の手に捕えられ、首をはねられました。
遺体は東京三鷹市の龍源寺に埋葬されたが、首は京都の三条大橋下流にさらされた。しかし何者かが持ち去りこの地に埋めたと言われる。このお墓は、會津藩の手によって建立されたが、それは會津藩主容保公が京都守護職中、新撰組はその支配下にあり、挺身幕府のために力をつくした。
また、土方歳三など一行が會津に来て、戦闘に参加した際この墓を参詣したと伝えられる。
墓石には「貫天院殿純忠誠義大居士」の法号と、その上に丸に三つ引きの近藤家の家紋が彫られている。
毎春4月25日の命日には、墓前祭が執り行われている。(萬松山天寧寺掲示より)
天寧寺の周辺図
参考資料
- 「北会津郡誌」