清瀧寺。福島県大沼郡会津美里町にある天台宗寺院

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護國山清瀧寺。天海大僧正所縁の文殊菩薩、智鏡塚、芭蕉翁袖塚碑

清瀧寺の概要

天台宗寺院の清瀧寺は、護國山と号します。清瀧寺は、圓濟法師が暦応2年(1339)に開基、文殊堂を建立したといいます。この文殊堂には、天海大僧正の両親が子授けを祈願した文殊菩薩が祀られていたことから著名となり、本尊の文殊菩薩は寛永寺の要請により寛永寺に遷座、代わりに寛永寺から賜った文殊菩薩を祀っているといいます(天海大僧正は、蘆名氏一族の出生とされ、小仙波喜多院の住持を勤め、東叡山寛永寺を創建、江戸幕府に深く関与した名僧です)。境内には伊佐須美神社再興に尽力し、最期は捨身往生を遂げた智鏡上人の智鏡塚や、芭蕉がたち切った右袖を埋めた芭蕉翁袖塚碑があります。

清瀧寺
清瀧寺の概要
山号 護國山
院号 -
寺号 清瀧寺
住所 大沼郡会津美里町字文珠西甲3611
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 -



清瀧寺の縁起

清瀧寺は、圓濟法師が暦応2年(1339)に開基、文殊堂を建立したといいます。この文殊堂には、天海大僧正の両親が子授けを祈願した文殊菩薩が祀られていたことから著名となり、本尊の文殊菩薩は寛永寺の要請により寛永寺に遷座、代わりに寛永寺から賜った文殊菩薩を祀っているといいます(天海大僧正は、蘆名氏一族の出生とされ、小仙波喜多院の住持を勤め、東叡山寛永寺を創建、江戸幕府に深く関与した名僧です)。

「福島県大沼郡誌」による清瀧寺の縁起

清瀧寺(天台宗)
高田町に在り、護國山と號し、同町龍興寺末にして、本尊は大日如来なり、暦應二年星圓濟の開基と稱す、明治廿二年五月十八日、本堂及び廊下焼失し、同年十一月廿五日本堂を再建す、境内地千三百八十七坪八歩、
文殊堂
清瀧寺の東に隣し、暦應二年圓濟法師の建立する所、天明三年火災に罹り、後ち明治廿三年五月十八日再び回禄に罹り、今方に建築中なり、寺務は清瀧寺の管する所なり、境内地千二百三十五坪、官有地なり、堂の傍に巨大なる櫻樹あり、姥櫻と云ひて名あり、(「福島県大沼郡誌」より)

境内掲示による清瀧寺と天海大僧正について

天海大僧正と文殊院
文殊院には、天海大僧正の両親が文殊菩薩に祈願し子を授かったという伝承が残されている。
元禄十一年(一六九八)、文殊院は「慈眼ノ誕生ヲ祈リシ霊験ノ仏ナリ」という噂を伝え聞いた東叡山寛永寺の大明院法親王から若松の延寿寺を通して、寛永寺に文殊菩薩を遷座することを要請される。遷座の件は、幕府の老中から会津藩にも伝えられ、会津藩家老西郷頼母等の指揮のもとに行われる。その際の様子が会津藩の「家世実紀」や「高田徴古録」に残されていて、文殊菩薩の梱包の状況や移動日程、警備・警護の注意などが記されている。
遷座の後、文殊院はもとの文殊菩薩の代わりに法親王が開眼した文殊菩薩を賜ったが、天明三年(一七八三)の大火で焼けたため、ふたたび定朝作と伝えられる文殊菩薩及び金襴の旛、若干の金を賜っている。後に、明治の大火で文殊堂は焼けてしまったが、再建された文殊院には寛永寺から贈られた木造の台で漆塗りの常夜灯一対が残されている。(会津美里町教育委員会掲示より)


いいお墓

清瀧寺所蔵の文化財

  • 智鏡塚(町指定史跡)
  • 芭蕉翁袖塚碑(町指定史跡)

智鏡塚

この塚は智鏡上人を祀った塚で、高さ約一・五メートル、周囲約十八メートルの大きさがある。塚の上には大きな五輪塔が建てられている。
智鏡上人は法幢寺の僧といわれ、文亀三年(一五〇三)に伊佐須美神社が火災にあい、贈爵綸旨を焼失したのを嘆き、天文二十年(一五五一)京都に赴き、後奈良天皇より再び正一位の綸旨を賜わった人物である。この綸旨により伊佐須美神社は再興したと伝えられる。
天文二二年(一五五三)、智鏡上人は高田村に疫病が流行したとき、穴を掘り棺に入って生き埋めとなった。智鏡上人は棺の中から念仏を唱え、疫病から人々を救おうとした。二一日間は地中より鐘を鳴らしながら唱える念仏が聞こえたが、その音もついに絶え、捨身往生を遂げたという。村人は塚に五輪塔を建て、供養したと伝えられている。(会津美里町教育委員会掲示より)

芭蕉翁袖塚碑

この碑は野面石に「芭蕉翁袖塚」と五文字を陰刻した碑で、台石を含めると一.四八mの高さがある。
松尾芭蕉が元禄二年(一六八九)、奥の細道への旅に出立するとき、右袖は筆のすさびに邪魔になるとしてたち切り、これを弟子の堀伊賀之助に与えた。これを高田村の俳人田中東昌(月歩)がもらいうけ、東昌は更に自分の絵師小林麻蔵に預けた。朝蔵は、伊佐須美神社の薄墨桜の下に、この袖を埋めて「芭蕉翁袖塚」の碑を建立した。後世に、碑は智鏡塚の東に移され、更にまた現在の位置に移された。
東昌は幼い頃より神童と呼ばれた。また、東昌は高田組郷頭を勤めたほか、文学者としても有名であった。
東昌の死後一周忌の天保十年(一八三九)五月に門人が「袖塚集」を編み、この由来を記している。「袖塚集」は現在でも田中文庫に残されている。(会津美里町教育委員会掲示より)

清瀧寺の周辺図


参考資料

  • 「福島県大沼郡誌」

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