多家神社。安芸郡府中町宮の町の神社

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多家神社。安芸郡府中町宮の町の神社

多家神社の概要

多家神社は、広島県安芸郡府中町宮の町にある神社です。多家神社の創建年代等は不詳ながら、神武天皇が東征の際に7年滞在したという「多祁理宮(古事記)」「埃宮(日本書紀)」が当社の前身ではないかと推定され、延喜式神名帳には多家神社の名が記されています。平安時代には、安芸国の国府が府中町に置かれ、総社を担っていたのではないかといいます。鎌倉時代に入ると、社運が衰え、南部の氏子(松崎八幡宮)と、北部の氏子(総社)とで、多家神社の継承をめぐり論争が絶えなかったことから、明治6年に両社を合わせた上、「誰曽廻森(たれそのもり)」と称されていた当地へ多家神社として創祀、明治7年には県社に列格していました。明治6年創祀に際しては、広島城三の丸稲荷社の社殿を移築、当社宝蔵は、その遺構で広島県有形文化財に指定されています。

多家神社
多家神社の概要
社号 多家神社
祭神 神武天皇、安芸津彦命
相殿 神功皇后、応神天皇、大己貴命
境内社 貴船神社
祭日 神武天皇祭4月第1日曜日、夏越祭7月30日、秋季例祭10月第3日曜日
住所 安芸郡府中町宮の町3-1-13
備考 -



多家神社の由緒

多家神社の創建年代等は不詳ながら、神武天皇が東征の際に7年滞在したという「多祁理宮(古事記)」「埃宮(日本書紀)」が当社の前身ではないかと推定され、延長5年(927)に作成された延喜式神名帳には安芸国の名神大社三社の一つとして多家神社の名が記されています。平安時代には、安芸国の国府が府中町に置かれ、総社を担っていたのではないかといいます。鎌倉時代に入ると、実権が国司から守護(武田氏)に移り、社運が衰え、南部の氏子(松崎八幡宮)と、北部の氏子(総社)とで、多家神社の継承をめぐり論争が絶えなかったことから、明治6年に両社を合わせた上、「誰曽廻森(たれそのもり)」と称されていた当地へ多家神社として創祀、明治7年には県社に列格していました。

境内掲示による多家神社の由緒

この地は、神武天皇が日本を平定するため御東征の折、お立ち寄りになられた所と伝わる。古事記(七一二年完成)に安岐国(安芸国)の多祁理宮に神倭伊波礼毘古命(神武天皇)が七年坐すとあり。日本書紀(七二〇年完成)には埃宮に坐すとある。この多祁理宮あるいは埃宮という神武天皇の皇居が後に当社となった。平安時代になると、菅原道真が編し始めた「延喜式」(九二七年完成)に安芸国の名神大社三社の一つとして多家神社の名が記され、伊都岐島神社(嚴島神社)、速谷神社とともに全国屈指の大社とあがめられた。当時の主祭神は安芸国を開いた安芸津彦命ほか六柱の神々であった。中世になると武士の抗争により社運が衰え、江戸時代には南氏子(松崎八幡宮)と北氏子(総社)に分れ、互いに多家神ないし埃宮を主張して論争対立が絶えなかった。そこで明治六年(一八七三)になって、松崎八幡宮と総社を合わせ、「誰曽廻森(たれそのもり)」(現在の社地)に、旧広島藩領内で厳島神社に次いで華美を誇った、広島城三の丸稲荷社の社殿を移築して多家神社を復興した。明治七年県社となった。その後、多くの村内小社を廃して多家神社に合祀した。大正四年(一九一五)九月、社殿を焼失したが、全県的な奉賛を得て大正十一年四月、今日の本殿、拝殿などを再建、境内の整備を行った。なお、境内の宝蔵は三の丸稲荷社より移築した社殿の唯一の遺構であり、今となっては広島城内にあった現存唯一の建物として貴重である。現在、県指定文化財となっている。(境内掲示より)

「広島縣神社誌」による多家神社の由緒

平安時代に安芸国には延喜式内の名神大社が三社あった。即ち、伊都岐島神社(嚴島神社)、速谷神社、多家神社である。前二社は今日厳然と鎮座し、長い歴史を現在に伝えている。しかし、多家神社は、多家神と安芸都彦神の名は史実に残されているが、中世にその所在が不明になった。蓋し、国府には総社があり、多家神ないし安芸都彦神は総社に祭祀されていた可能性が大きい。江戸時代、府中村は南氏子(松崎八幡宮)と北氏子(総社)に分れ、互いに多家神ないし埃宮の祭祀をめぐって論争対立が絶えなかった。明治六年になって、八幡宮と総社を廃止し、たれその森(現在の社地)に広島城三の丸にあった稲荷社の社殿を移築して新たに一社を創建、明治七年、県社多家神社となった。その後、多くの村内小社を廃して多家神社に合祀した。大正四年九月、社殿焼失し、全県的な奉賛を得て大正十一年四月、今日の本殿、拝殿などを再建、境内の拡張整備などを行った。なお、多家神は、『古事記』に安岐国の多祁理宮に神倭伊波礼毘古命(神武天皇)が七年坐すとあり、『日本書紀』には埃宮にますとあるに基き、神武帝を主神としている。また、『三代実録』貞観元年(八五九)などの多家神の名が見える。なお、境内にある宝蔵は広島城三の丸稲荷社より移築したものであって、現存唯一の広島城内の建物である。(「広島縣神社誌」より)


多家神社所蔵の文化財

  • 多家神社の宝蔵(広島県指定有形文化財)

境多家神社の宝蔵

この宝蔵は明治7年(1874)の多家神社創建に際して移築された広島城三の丸稲荷社の社殿の1棟である。校倉造と呼ばれる建築様式で、太い材木(校木)を四方に組上げて壁とする建築方法である。柱はなく、壁が桧皮葺の屋根を支えており、通気性がよく宝物の保存に適している。一般的な校倉造では組上げる校木に三角形に近い五角形の材を使うが、この校倉は四角形に近い六角形の材を用いている。これは「信貴山縁起絵巻(国宝)」に描かれているものと同じであるが、現存する校倉では外に例がない。江戸時代後期の校倉の好例であるといえる。
この宝蔵は、収蔵されている神輿や校木形状の稀少性だけではなく、現存する数少ない広島城の建築物としても重要である。(府中町教育委員会掲示より)

多家神社の周辺図


参考資料

  • 「広島縣神社誌」