饒津神社。広島県広島市東区の神社

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饒津神社。広島県広島市東区の神社

饒津神社の概要

饒津神社は、広島県広島市東区にある神社です。饒津神社は、広島藩6代藩主浅野綱長公が、広島城の艮(東北鬼門)に当たる明星院客殿西方に長政公の位牌堂を宝永3年(1706)に創建、広島藩9代藩主浅野斉粛が天保6年(1835)二葉山御社と称し、藩より社領三百石が奉献されたといいます。明治元年に太祖長政公の夫人末津姫を配祀、明治六年県杜に列し、社名も饒津神社と改め、大正14年に浅野幸長公・長晟公を合祀、昭和15年浅野長勲公を合祀しています。

饒津神社
饒津神社の概要
社号 饒津神社
祭神 浅野長政命(浅野家初代)、末津姫命(初代夫人)、浅野幸長命(二代)、浅野長晟命(三代、広島藩初代)、浅野長勲命(十四代、最後の藩主)
相殿 -
境内社 泉邸今中稲荷神社
祭日 10月10日
住所 広島市東区二葉の里2−6−34
備考 -



饒津神社の由緒

饒津神社は、広島藩6代藩主浅野綱長公が、広島城の艮(東北鬼門)に当たる明星院客殿西方に長政公の位牌堂を宝永3年(1706)に創建、広島藩9代藩主浅野斉粛が天保6年(1835)二葉山御社と称し、藩より社領三百石が奉献されたといいます。明治元年に太祖長政公の夫人末津姫を配祀、明治六年県杜に列し、社名も饒津神社と改め、大正14年に浅野幸長公・長晟公を合祀、昭和15年浅野長勲公を合祀しています。

境内掲示による饒津神社の由緒

天保6年(1835)、広島藩9代藩主浅野斉粛が始祖長政を祀るため広島城鬼門(東北)の方向に、明星院境内の西半分を割いて造営しました。
時代は天保の大飢饉、藩財政の苦しい中、敢えて壮大な神社を造営したのは、始祖を祭神とした神社を建立することで藩士の結束を固めようとした為と伝えられています。なお、幕末に創建された神社のうちでは、全国最大を誇るものでした。
昭和20年8月、原爆被災により建物は全焼し、石灯籠、手水鉢などの石造物の他、十数本の松(最後の1本も平成15年1月に松枯れし伐採)のみが残る甚大な被害を受けました。
戦後、仮殿、本殿などが再建されましたが、昭和59年本殿、拝殿、瑞垣が戦前の姿に復興され、遂に平成12年(2000年)を機に、悲願の向唐門が復元されました。この向唐門は武家を祀る神社などに使われていましたが、その大きさは全国2位の大きさを誇っています。(二葉の里歴史の散歩道掲示より)

「広島県神社誌」による饒津神社の由緒

宝永三年(一七〇六)綱長公(浅野家第六代)のときに、広島城の艮(東北鬼門)の方位に当たる明星院客殿西方に長政公の位牌堂を建立。さらに長政公二百回御忌に当たる文化七年(一八一〇) に斉賢公(十代)、前藩主重愚公(九代)とともに新たに壮麗な位牌堂を建立した。この位牌堂は饒津神社の先駆的なものであり、この時奉納された文化年間の燈龍や大石水盤等は、後に饒津神社創立とともに境内に移されて現存している。長政公を神として奉祀することは重晟公以来内慮があり、天保六年(一八三五)斉粛公(十一代)が祖先追孝のため社殿を現在地(明星院西方)に造営、二葉山御社と称した。なお、二葉山の名は饒津神社の創祀の際に藩執政関蔵人らによって命名されたものである。御神号は京都、吉田良長に草案を依頼し、長懋公(斉粛公の叔父)の御撰択により「饒津大明神」と定められた。また、藩より社領三百石が奉献され、明星院を別当寺としたが、明治元年の神仏分離により本殿裏山にあった本地堂は破却され、明星院は別当寺を解かれた。明治元年に太祖長政公の夫人末津姫を配祀、明治六年県杜に列し、社名も饒津神社と改め、明治七年には広島県より境内地を饒津公園と指定された。明治四十三年五月に長政公三百年大祭、大正九年十月に浅野長晟公広島入城三百年祭、大正十四年四月に幸長公・長晟公合祀鎮座祭、昭和十五年十一月長勲公合祀鎮座祭等が、それぞれ盛大に斎行された。昭和二十年原爆被災のため本殿以下諸施設及び能面三面(重要美術品)を焼失、同二十一年仮殿を建て、同二十四年戦前より大幅に縮小した本殿、二十七年拝殿、二十九年幣殿をそれぞれ再建した。昭和五十九年六月広島市の道路計画に基いて境内地の一部を譲渡したのを機に本殿、拝殿、中門、瑞垣等を戦前の姿に復興した。(「広島県神社誌」より)


饒津神社の周辺図


参考資料

  • 「広島県神社誌」