広島東照宮。広島県広島市東区の神社

猫の足あとによる東京都寺社案内

広島東照宮。広島県広島市東区の神社

広島東照宮の概要

広島東照宮は、広島県広島市東区にある神社です。広島東照宮は、徳川家光が諸侯に藩内での東照宮造営を命じたことから、広島藩主浅野光晟が慶安元年(1648)に創建、藩主浅野光晟は家康の外孫にもあたることから荘厳を尽した社殿を造営、社領300石を寄附し50年毎に大御祭礼を続けてきたといいます。明治維新後、浅野家の東京移住に伴い神璽も東京へ奉遷したものの、地元有志の願いにより復旧、明治8年村社に列格、大正3年神饌幣帛料供進社に指定されていました。本社のみならず、境内社御産稲荷社は安産祈願に、金光稲荷神社は商売繁昌・家内安全に効験ありと参詣者の多い神社です。

広島東照宮
広島東照宮の概要
社号 東照宮
祭神 徳川家康公
相殿 -
境内社 金光稲荷神社、祖霊社、御産稲荷社
祭日 10月17日直前の日曜日
住所 広島市東区二葉の里2-1-18
備考 -



広島東照宮の由緒

広島東照宮は、徳川家光が諸侯に藩内での東照宮造営を命じたことから、広島藩主浅野光晟が慶安元年(1648)に創建、藩主浅野光晟は家康の外孫にもあたることから荘厳を尽した社殿を造営、社領300石を寄附し50年毎に大御祭礼を続けてきたといいます。明治維新後、浅野家の東京移住に伴い神璽も東京へ奉遷したものの、地元有志の願いにより復旧、明治8年村社に列格、大正3年神饌幣帛料供進社に指定されていました。

「広島県神社誌」による広島東照宮の由緒

広島東照宮は、広島城の東北、二葉山(古くは尾長山と称した)の南麓にあり、徳川家康公の神霊を祀る。広島藩主浅野光晟公が慶安元年(一六四八)四月に創建する。御神体は正保四年(一六四七)江戸上野青龍院にて開眼、これを迎えて盛大に遷宮祭を行った。『知新集』によると、本殿、中門、透塀、拝殿をはじめ多くの社殿が建ち並び、漆塗りの豪華なものであった。『芸藩通志』には、すべて門殿の梲榾等、彩画彫鏤、極て精巧を盡すと記されている。広島藩より社領三百石を付して、毎年荘厳な祭礼を行い、また、五十年毎の式年祭として大御祭礼が盛大に行われてきた。明治の神仏分離までは長尾山松栄寺(東照宮の西隣にあった)を別当寺とした。昭和二十年八月六日原子爆弾によって爆心地から二千三百米の地点にある本殿、拝殿等は全焼し、他の付属社殿も大破した。昭和四十年四月、三百五十年の式年大祭を記念して原爆で焼失した社殿を再建する。焼失を免れた唐門、左右翼廊、手水舎、本地堂、御供所、脇門は市の文化財に指定されている。また、東照宮境内の二葉山の山頂から山麓にかけて朱の鳥居が並ぴ、古くから摂社として金光稲荷神社が記られている。(「広島県神社誌」より)

「廣島市史」による広島東照宮の由緒

東照宮
東照宮は本市の東北なる尾長町長尾山の南麓に在り、境内は六千五百八拾四坪(官有地第一種)贈正一位征夷大将軍徳川家康の靈を祀る、社殿は正保三年藩主安藝守淺野光晟の造營する所なり、是より先き、元和年中、征夷大将軍徳川家光は其祖父東照公(家康)の爲めに日光廟を造營し、又新たに三河國岡崎に東照宮を建立し、諸侯に諷諭して各々その封内に就き、東照宮を造營せしめらる、時に藩主光晟は家康の外孫に當りければ(光晟の母振姫は家康の第三女なり)夙に東照宮造營の議を起し、先づ郡奉行今中兵庫に造營總奉行を命じ、祠廟及社僧寺造營の計畫を立てしめ、正保三年地を卜して此處に定め、多くの工匠を京師より招致して、工事に着手し、又江戸に於て毘沙門堂御門跡大僧正公海を請ひて導師とし、青龍院法印亮盛を請ひて造營師とし、東照宮神體を造らしむ、翌正保四年十一月十七日、江戸に於て其神體成就し、上野青龍院に於て開眼式を行はる、未だ幾ばくもなくして、尾長祠廟の造營も亦竣工を告ぐ、祠廟の四方五十餘間、本殿・拝殿・石門・端籬・中門あり、唐門あり、總て門殿の梲椙等、彩畫彫鏤、極めて精巧を盡し、輪奐の美を極めたり、其他に本地堂・神輿庫・御供所あり、慶安元年組頭淺野和泉・大番者頭谷五郎兵衛を江戸に遣はし、神體を奉迎せしむ、二使は五月二十九日を以て江戸に著し、六月十日青龍院法印亮盛及二使は神體に供奉して江戸を發し、陸路三河國岡崎に抵る、瀧山寺の僧侶五人出て之を迎へ、且随從し来る、二十日京都に着し、五條松原通の藩邸に入り、二十六日伏見より船に乗じて淀川を下り、此夜大阪に着し、藩邸に入る、船奉行植木小右衛門は藩命を奉じ、藩船を艤して之を迎ふ、二十八日亥の刻、船に移乗し、神體の長櫃を上段に安置し、注連を張り、清浄に奉仕す、七月二日解欖、大阪を發し、海路歸途に就く、是時藩主光晟は更に郡奉行丹羽大膳を藩境に遣はし、高野安兵衛を豊田郡高崎に遣はして之を迎へしめ、又國老淺野甲斐・同淺野攝津を遣はして之を隠戸瀬戸に迎へしめ、而して光晟は親ら似ノ島に航して之を迎ふ、廣島東西町奉行沖左平太、寺西與三兵衛扈從す、五日の夜、亥刻、神船満潮に乗じて京橋川より廣島に入り、長尾山社僧寺に着す(此時今だ寺號あらず、後ち松榮寺と號するもの是なり)此夜光晟この社僧寺に宿直す、國老皆從ふ、六月青龍院亮盛・禅光坊僧侶等、皆登城して光晟に謁見す、是より先き山門の僧侶を招請す、是に至り山香勘解由を尾道に遣はして之を迎へしむ、十一日山門の僧侶十五人廣島に入る、之を明星院に舎せしむ、十六日酉の刻、遷宮式を行はる、先づ佛式に依る、藩主光晟衣冠束帶して奉侍せらる、式終りて衆僧退く、光晟乃ち更に神式に依り、御太刀折紙・金馬代・魚鳥及酒樽を献じ、禮拝奉幣し、飲福して退出す、三次支藩主淺野因幡守長治及赤穂藩主淺野内匠頭長直代参奥野将監も亦金馬代を献じ、禮拝飲福して退出す、之に次ぎ國老三人又銀馬代を献じ、飲福して退出す、十八日光晟復た参拝し、十九日青龍院・禅光坊の二僧及び山門の衆僧を城中に招きて之を饗し、能舞を観覧せしめて之を勞ふ、是歳家康薨じてより實に三十三年忌に當れり、是れ此事ある所以なり、慶安元年社領三百石を附せらる、爾後毎歳九月十六・十七の兩日を以て祭儀を行ひ、藩主在國の時は十七日を以て親ら社参禮拝するを例となせり、
明治維新の後は、明治三年二月二十五日社領を廢止せられ、同年十一月華族(元武家)の輩に東京住居を仰付けられ、同四年七月廢藩置縣の際、舊淺野侯爵東京府に移住せらるるに當り、本社の神璽も、その瀆褺を憂ひて、東京の同侯邸内に奉遷ありしが、後ち廣島市中有志の者より之を本社に復して祟敬せんことを同家に懇請し、其神璽を復舊すると同時に、織田庫助なるもの縣廳に願ひ出て、官許を得、明治八年四月十六日再び勧請して社格を村社に列せられ、大正三年四月七日神饌幣帛供進社に指定せらる。(「廣島市史」より)


広島東照宮所蔵の文化財

  • 東照宮本地堂(広島市指定文化財)
  • 東照宮大神輿(広島市指定文化財)
  • 東照宮御供所(広島市指定文化財)
  • 東照宮手水舎(広島市指定文化財)
  • 東照宮唐門(広島市指定文化財)
  • 東照宮翼廊二棟(広島市指定文化財)
  • 東照宮脇門(広島市指定文化財)

東照宮本地堂

江戸初期、慶安元年(一六四八)の造営、当初徳川家康公の本地仏である薬師如来が祀られていたが明治以降は神輿舎に転用した。
今では数少ない神仏混合時代の遺構「総朱漆塗り」「四方の中備えに極彩色の蟇股を置く」などが特徴である。
昭和五十九年三月修理漆塗装し当時の姿に復元す。
堂中には大神輿(重文)あり(境内掲示より)

広島東照宮の周辺図


参考資料

  • 「広島県神社誌」
  • 「廣島市史」