空鞘稲生神社。広島県広島市中区の神社

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空鞘稲生神社。広島県広島市中区の神社

空鞘稲生神社の概要

空鞘稲生神社は、広島県広島市中区にある神社です。空鞘稲生神社の創建年代等は不詳ながら、天文年間(1532-1555)には既に「空鞘大明神」と「彦山明神(現幸神社)」として祀られていたともいいます。空鞘は、社頭の杜に刀の鞘のみが掛っていたとの伝えにより付けられ、社号・地名となっています。明治維新後の社格制定に際して明治5年村社に列格、明治15年中島新町恵美須神社を合祀、明治40年には神饌幣帛料供進社に指定されていました。

空鞘稲生神社
空鞘稲生神社の概要
社号 空鞘稲生神社
祭神 宇迦之御魂神、宇気母智神、和久産巣日神
相殿 天照大御神、天忍穂耳命、邇邇芸能命、産火火出見命、鵜茅葺不合命
境内社 稲生神社、幸神社、恵美須神社
祭日 10月第3日曜日
住所 広島市中区本川町3-3-2
備考 境外社:西本川浜恵美須神社



空鞘稲生神社の由緒

空鞘稲生神社の創建年代等は不詳ながら、天文年間(1532-1555)には既に「空鞘大明神」と「彦山明神(現幸神社)」として祀られていたともいいます。空鞘は、社頭の杜に刀の鞘のみが掛っていたとの伝えにより付けられ、社号・地名となっています。明治維新後の社格制定に際して明治5年村社に列格、明治15年中島新町恵美須神社を合祀、明治40年には神饌幣帛料供進社に指定されていました。

境内掲示による空鞘稲生神社の由緒

当社は宇迦之御魂神、宇気母智神・和久産巣日神の三柱を主祭神として奉祀している。
当社の縁起は甚だ古く、天文年間(西暦一五三二年頃)の御創建という。
毛利輝元公が広島城郭を築城する以前より此の地に大小の二社があり、大の社を「空鞘大明神」小の社を「彦山明神(現在の幸神社)」と唱えた。
その後隆興の一途をたどり、毛利公の崇敬厚くかなりの社領も有して居た。延享・明和の二度にわたる火災にもその都度再興され、天保五年に社殿を再建、明治五年村社に列せられる。同四十年神饌幣帛料供進社に指定せられ、大正八年社殿を新改築し、神域を拡大、当神社より南舟入までおよび中島・吉島一円の産土神として社頭も非常な賑いをみせ、旧暦九月二十九日の例大祭は盛大を極めた。
昭和二十年八月六日広島に投下された原子爆弾によりすべて灰燼に帰したが、同二十八年十月復興され漸次境内地の整備を行っている。
「空鞘」の名は、社頭の松の大木に刀の鞘のみが掛って居た事によりその社名となったと伝えられている。(境内掲示より)

「広島縣神社誌」による空鞘稲生神社の由緒

毛利輝元の広島築城の時、枯萩寒草の間に二社あり、大を空鞘大明神、小を彦山明神といいうと古書に記されている。天文年間(一五三二-五五)の創建と言われている。延享年間(一七四四-四八)、明和年間(一七六四-七二)の仁度の火災にあったが、その都度再興され、さらに天保五年(一八三四)に社殿を再建している。大正八年社殿を新築し神域を拡大、当神社より南舟入まで及び中島、吉島一円の産土神として社頭も賑った。昭和二十年八月六日の原子爆弾により総て灰燼に帰し、同二十八年十月復興され現在に至る。(「広島縣神社誌」より)

「廣島市史社寺史」による空鞘稲生神社の由緒

空鞘神社
空鞘神社は空鞘町に在り、境内は三百七拾六坪七合(官有地第一種)祭神は宇迦之御魂神、宇気母智神・和久産巣日神なり、往昔社領の森に刀の鞘のみ懸り居けるより社名とし、後ち町名にもなりしと云ふ、勸請の年代は詳ならず、寛永の地圖に此神社見へず、「温故集」に元禄十一年空鞘稲荷大明神の額朽損しければ改造することを願ひて許されし事見ゆ、時代略ぼ考ふべし、天保五年九月十七日社殿を再建す、藩制時代には廣瀬組六箇町・空鞘町・左官町(廣瀬組の内三町と空鞘・左官町幷・廣瀬社氏子交る)船入村・西地方町・主水町新開等の産土神なりき、又當社は初め空鞘稲荷大明神と稱せしが、明治四年に至り空鞘神社と改稱し、同五年十一月村社に列し、同十五年三月二十一日本市中島新町恵美須神社(祭神、言代主神)を當社に合併す、同四十年二月一日神饌幣帛料供進社に指定せらる、毎歳十月二十九日を以て例祭日となせり。(「廣島市史社寺史」より)


空鞘稲生神社の周辺図


参考資料

  • 「広島縣神社誌」