広瀬神社。広島県広島市中区の神社
広瀬神社の概要
広瀬神社は、広島県広島市中区にある神社です。広瀬神社の創建年代等は不詳ながら、毛利輝元が広島城を築城する天正年間(1573-1591)には、すでに廣瀬辨財天として祀られていたといいます。江戸期には廣瀬組八箇町・空鞘町・左官町・天満町・廣瀬村・觀音村・川田村の産土神として祀られ、正徳年間(1711-1716)には尾長東照宮の御旅所と定められていました。明治維新後の社格制定に際して明治5年村社に列格、明治40年には神饌幣帛料供進社に指定されていました。
社号 | 広瀬神社 |
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祭神 | 市杵島比売命、多紀理比売命、多岐都比売命 |
相殿 | 天照皇大神、須佐之男命、神武天皇 |
境内社 | - |
祭日 | 10月第3日曜日 |
住所 | 広島市中区広瀬町1-19 |
備考 | - |
広瀬神社の由緒
広瀬神社の創建年代等は不詳ながら、毛利輝元が広島城を築城する天正年間(1573-1591)には、すでに廣瀬辨財天として祀られていたといいます。江戸期には廣瀬組八箇町・空鞘町・左官町・天満町・廣瀬村・觀音村・川田村の産土神として祀られ、正徳年間(1711-1716)には尾長東照宮の御旅所と定められていました。明治維新後の社格制定に際して明治5年村社に列格、明治40年には神饌幣帛料供進社に指定されていました。
境内掲示による広瀬神社の由緒
当社は、市寸島比賣命、多紀理比賣命、多岐都比賣命を祀り、相殿に天照皇大神、須佐之男命、神倭伊波禮彦命を配祀する。
天正年間、此所に廣瀬辨財天という社あり、毛利輝元この地に菩提寺、洞春寺をおくに及んで、これを鎮守社とし、廣瀬市杵島大明神と称して信仰厚く、社領を寄せられたという。
享保八年、社号を廣瀬大明神と改称。
旧藩時代は、廣瀬、十日市より天満、観音、福島に至る広島西部一円の氏神として崇敬せられ、毎年九月十九日の大祭は盛大な賑いを呈したという。
明治五年、社号を廣瀬神社、社格を村社と定められ、十月十九日を例祭日とし、広い境内には樹齢三百年以上という大樹、森をなし、諸々の社殿甍を連ね、宏大を誇る社であったが、昭和二十年八月六日原子爆弾のため烏有に帰した。
戦後、市街地区画整理の結果、境内は狭隘となったが、昭和二十二年復興、假殿を営み、同二十四年拝殿を、同五十年秋本殿を造営し、翌五十一年秋にかけて境内の整備を実施した。(境内掲示より)
「広島縣神社誌」による広瀬神社の由緒
毛利氏の菩提寺、洞春寺の鎮守社であったという所伝もある。もと広瀬弁財天と称したが、享保八年(一七二三)広瀬大明神と改め、さらに明治五年、広瀬神社と改めた。昭和二十年八月原子爆弾のため灰燼に帰し、戦後の市街地区画整理のため境内地は半減した。昭和二十二年に社殿を復興する。(「広島縣神社誌」より)
「廣島市史社寺史」による広瀬神社の由緒
廣瀬神社
廣瀬神社は廣瀬町字一の組に在り、祭神は市伎島毘賣神・多紀理比賣神・多紀都比賣神なり、當社は初め廣瀬辨財天と稱せしが、享保八年廣瀬大明神と改め、同九年閏四月神祇管領兼敬染筆の廣瀬大明神の額を納めらる、明治五年に至りて終に廣瀬神社と改稱せり、此地もと毛利氏の時、其菩提寺たる洞春院を置けり、故に當社そのかみ其鎮守社なりしと云ふ説もあり(其説知新集に見ゆ、藝藩通志亦同じ)又明治十三年當社より地方廳に差出せし上申書には『天正年間毛利輝元廣島築城之以前、此所に大小の神社有り、大の神社を廣瀬辨財天と唱へ、小の神社を古森別宮と稱し来りし所、毛利氏に至りて、廣瀬市伎島大明神と相改められ、信仰厚く、社領も彼附置候由の所、福島正則入國後、右社領沒収云々』と記せり、藩制時代には廣瀬組八箇町・空鞘町・左官町(廣瀬組の内三箇町と空鞘町には空鞘社の氏子相交る)天満町・廣瀬村・觀音村・川田村(今の福島町)の産土神にして、正徳年間尾長東照宮大祭禮の時、御旅所と定められてより同宮大祭毎に神輿は尾長の本宮よりこゝに渡御するを例とせしも、今は其式を廢せり、明治五年十一月村社に列し、同四十年二月一日神饌幣帛料供進社と指定せらる、毎歳十月十九日を以て例祭日となす、(「廣島市史社寺史」より)
広瀬神社の周辺図
参考資料
- 「広島縣神社誌」