國前寺。広島県広島市東区にある日蓮宗寺院
國前寺の概要
日蓮宗寺院の國前寺は、自昌山龍華樹院と号します。國前寺は、暦応3年(1340)に安芸国を訪れた日蓮上人の弟子日像上人が、草庵を営んでいた僧暁忍を教化、暁忍寺として創建したといいます。明暦2年(1656)には広島藩の二代藩主である浅野光晟とその妻満姫(自昌院英心日妙)の菩提寺となり、寺名を國前寺と改め、寺領200石を寄進されていたといいます。
山号 | 自昌山 |
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院号 | 龍華樹院 |
寺号 | 國前寺 |
本尊 | - |
住所 | 広島市東区山根町32−1 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
國前寺の縁起
國前寺は、暦応3年(1340)に安芸国を訪れた日蓮上人の弟子日像上人が、草庵を営んでいた僧暁忍を教化、暁忍寺として創建したといいます。明暦2年(1656)には広島藩の二代藩主である浅野光晟とその妻満姫(自昌院英心日妙)の菩提寺となり、寺名を國前寺と改め、寺領200石を寄進されていたといいます。
「廣島縣史」による國前寺の縁起
昔は眞言宗暁忍阿闍梨の庵なり、暦應三年日像下向の時、暁忍、日像に歸伏し、宗旨を改めて暁忍寺と號す、是日像の安藝國に於て、宗旨弘通の嚆矢たり、明暦二年、淺野光晟・同夫人法名自昌院英心日妙の歸依に依り、改築して國前寺と改め、香華場として寺禄二百石を施入す、廿二代目日憲の時、江戸谷中感應寺日進、悲田不受不施異流を企て、元禄四年停止の際、當寺は不受不施となる、自昌夫人は天台宗に轉し、當寺も暫天台宗たるへしとの命ありしに、之に從はさりし爲め、同五年十一月菩提所を停め、寺禄を沒収せられて平寺となる。(「廣島縣史」より)
境内掲示による國前寺の縁起
日蓮宗寺院である國前寺は、「國前寺縁起」によると暦応三年(1340)に安芸の国を訪れた日蓮の弟子日像が、尾長山の麓で草庵を営んでいた僧暁忍に出合い、この時暁忍が日像に師事し、寺(暁忍寺)を開いたのが始まりであるといわれる。その後、明暦二年(1656)に広島藩の二代藩主である浅野光晟とその妻満姫の菩提寺となり、寺名を國前寺と改称した。これを契機に本堂、庫裏などの諸堂の造営が行われ、寺観が整えられた。
平成5年(1993)に本堂と庫裏が国重要文化財に、平成7年(1995)に山門と境内地が市重要文化財に指定された。(二葉の里歴史の散歩道掲示より)
國前寺所蔵の文化財
- 國前寺本堂・庫裡(国重要文化財)
- 國前寺山門及び参道を構成する境内地(市重要文化財)
國前寺本堂・庫裡
日蓮宗寺院である國前寺は、「國前寺縁起」によると、暦応三年(1340)に安芸の国を訪れた日蓮の弟子日像が、尾長山の麓で草庵を営んでいた僧暁忍に出合い、この時暁忍が日像に師事し、寺(暁忍寺)を開いたのが始まりであるといいます。その後、明暦二年(1656)に広島藩の二代藩主である浅野光晟とその妻満姫の菩提寺となり、寺名を國前寺と改称しました。これを契機に本堂、庫裏などの諸堂の造営が行われ、寺観が整えらました。(広島市教育委員会掲示より)
國前寺山門及び参道を構成する境内地
國前寺山門は、天保11年(1840)の建築です。
また、山門と本堂・庫裡間の境内地は江戸時代の國前寺の様子をよくとどめており、寛文11年(1671)の刻銘を持つ石燈籠4基、明治39年(1906)再建の鐘楼があります。(広島市教育委員会掲示より)
國前寺の周辺図
参考資料
- 「廣島縣史」