長性院。広島県広島市南区にある浄土宗寺院
長性院の概要
浄土宗寺院の長性院は、良雲山千日寺と号します。長性院は、信濃(長野県)の僧正誉玄斎和尚が、諸国巡錫に際して当地に止錫、元和3年(1617)に榮山庵を開いて開創、千日間常念仏と唱え続けたことから千日谷とも称されるようになったといいます。幽栖の地だったことから、ある夜に一人の武士が「試し斬り」をしたところ、斬ったはずの女人ではなく、地蔵尊が斬られた横たわっていたことから、その武士は剃髪し玄斎和尚の弟子となり、2世善誉上人弘願和尚となったといいます。その後、寺西将監利之の妻(法名長性院)・娘(法名良雲院)の寄進により堂塔を建立、正徳4年(1714)良雲山榮山寺長性院と号しています。広島新四国八十八ヶ所霊場第55番です。
山号 | 良雲山 |
---|---|
院号 | 長性院 |
寺号 | 千日寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 広島市南区比治山町7−40 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 三鬼大神・稲荷明神大祭:2月 |
長性院の縁起
長性院は、信濃(長野県)の僧正誉玄斎和尚が、諸国巡錫に際して当地に止錫、元和3年(1617)に榮山庵を開いて開創、千日間常念仏と唱え続けたことから千日谷とも称されるようになったといいます。幽栖の地だったことから、ある夜に一人の武士が「試し斬り」をしたところ、斬ったはずの女人ではなく、地蔵尊が斬られた横たわっていたことから、その武士は剃髪し玄斎和尚の弟子となり、2世善誉上人弘願和尚となったといいます。その後、寺西将監利之の妻(法名長性院)・娘(法名良雲院)の寄進により堂塔を建立、正徳4年(1714)良雲山榮山寺長性院と号しています。
「廣島縣史」による長性院の縁起
長性院
開山正譽玄斎、(信濃松本の人)慶長中創立、初榮山庵といふ、玄斎千日の勤行を修む、仍て小榮山千日谷等の稱あり、承應元年玄斎去りて歸らす、後白譽の時、藩士寺西利之の室人(法名長性院)白銀三十貫を施し、新に堂塔を立て、良雲山榮山寺長性院と號す、良雲は所生女子の法名なり、正徳四年より寺號を千日寺と號せり。(「廣島縣史」より)
「廣島市史社寺史」による長性院の縁起
長性院
長性院は良雲山・千日寺と號す、段原町比治山の北面山腹に在り、宗派・本寺とも妙慶院に同じ(鎮西派京都智恩院の末寺)、本尊は阿彌陀如来(六阿彌陀の一)なり、初め信州松本の僧正譽玄斎諸國を巡錫して、此地に来りけるに、當時此山の渓麓ともに未だ人家なく、空林寂莫にして、心も澄みわたりければ、笈佛の彌陀像をおろし、鉦皷を前にすへ、半時ばかり此山を見巡り歸りしに、不思議にも人なくして、鉦皷の音、山谷に響く、玄斎以爲らく、是れ笈佛有縁の地なりと、即ち桐油紙を覆ひて、雨露を凌ぎ、暫く足を此處に止めて、日夜念佛す、元和三年里人爲めに草庵を結びて居らしむ、之を榮山庵と號す、玄斎は千日間發願して睡眠せず、常念佛を行ふ。後世榮山谷・千日谷といふは、これに起因す、後ち承應元年十月十五日玄斎は飄然出て復た還らず、而して其歿する處を知らず、弟子善譽榮山庵を嗣ぎしが、後禿翁が弟子紀州小倉の僧、此庵に住みける時、藩士寺西将監利之が妻、銀三拾貫目を施し、新に堂塔を建立す、此に於て始めて良雲山榮山寺長性院と號す(長性院のこと禿翁寺の條に在り)、蓋「長性」は寺西利之の妻の法名長性院に據り、「良雲」は同人娘近藤某の妻の法名良雲院に取れるなり、正徳の頃に至り、榮山寺を改めて千日寺と爲すといふ、是を以て當寺三世白譽を中興開山とし、彼の長性院を開基となす、八世實譽の時、本堂大破せしを以て再建し、寶暦の大火に遇ひて諸堂類焼し、九世察譽の時、庫裡を再建せしも、寛政年中再び焼失せしかば、十二世宣譽本堂・庫裡を建立せり、(「廣島市史社寺史」より)
長性院身代わり地蔵尊の由来について
当山は元和三年(一六一七)=福島正則の時代=に信濃(長野県)の僧正誉玄斎和尚によって創建された。和尚は弘法利生の志篤く諸国巡錫の途上この地に来ると紫雲たなびく中に一道の光明をみ荘厳な鉦鈷の妙音を聞き給ひてこの音をたよりに行かれたところこのお地蔵さまが安置されていたのえこの地こそ正しく仏有縁の霊地なりと感得し発願して当山を開かれたのである。当寺開山の仏縁をたまわったこの霊験あらたかなお地蔵さまは当時一般庶民の間で信仰する者非常に多くを数え中でも松川町に住む、大門という苗字の女人は殊のほか信心堅固でこのお地蔵さまの篤信者として日夜のお参りを欠かしたことはなかった。
その頃この比治山一帯はとても静寂なところであり武士達の「試し斬り」に最適な場所であった。そうした或る夜一人の侍は新味の一刀の切味を試そうとお地蔵さまのお参りを終て帰路を急ぐこの女人を山門で待ち伏せをし一太刀のもとに女人の右肩より左胸にかけて袈裟がけに斬りつけたのえある。ところがこの侍がその場にみたものは、斬ったはずの女人の体ではなくそこに袈裟がけに斬られたお地蔵さまが真二つに斬られて横たわっておられた。この侍はこの奇瑞を目の当たりにして今更ながら、このお地蔵さまがもつ不可思議な霊験に驚きめざめて、その場で黒髪を落とし菩提心をおこして玄斎和尚の弟子となった。そして後、罪障消滅のために諸国を遍歴遊行して幾年を経て当山第二世善誉上人弘願和尚としてその法燈を受嗣がれたのである。尚試し斬りに用いられたという刀は長性院の宝物として永く伝わっていたが宝暦六年(一七五六)の大火で惜しくも烏有に帰して了った。又この地蔵尊は衆生の苦難に身代わりとなって救うというので特に胃腸病に苦しむ者にとっては、一心に祈願をこめお念仏をお唱えすればその病苦よりのがれ治るとう不思議なご利益もあると言い伝えられている。合掌(境内掲示より)
長性院の周辺図
参考資料
- 「廣島市史社寺史」