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大聖院。廿日市市宮島町滝町にある真言宗御室派寺院

大聖院の概要

真言宗御室派寺院の大聖院は、多喜山水精寺と号します。大聖院は、弘法大師が大同元年(806)に弥山を開創したと伝えられ、鳥羽天皇が勅願所としたほか、天正12年(1584)には、後奈良天皇の御猶子で仁和寺の任助一品法親王が御留錫、明治18年にも明治天皇の行在所に充てられたといいます。明治維新まで、当院住持は累代嚴島神社の別当職(座主)を務めていました。昭和35年真言宗御室派の大本山に昇格しています。広島新四国八十八ヵ所霊場87番、中国観音霊場14番です。

大聖院
大聖院の概要
山号 多喜山
院号 大聖院
寺号 水精寺
本尊 不動明王像
住所 廿日市市宮島町滝町210
宗派 真言宗御室派
葬儀・墓地 -
備考 -



大聖院の縁起

大聖院は、弘法大師が大同元年(806)に弥山を開創したと伝えられ、鳥羽天皇が勅願所としたほか、天正12年(1584)には、後奈良天皇の御猶子で仁和寺の任助一品法親王が御留錫、明治18年にも明治天皇の行在所に充てられたといいます。南北朝時代の争いにより古記録は康正2年(1456)焼失、さらに大僧都良辨が天皇に閲覧いただくために天文23年(1532-1555)上京する際に水難に遭って紛失してしまったといいます。明治維新まで、当院住持は累代嚴島神社の別当職(座主)を務めていました。明治20年失火により焼失、翌年弥山の諸堂も焼失したものの復興、昭和35年真言宗御室派の大本山に昇格しています。

境内掲示による大聖院の縁起

江戸時代、厳島神社の運営を行う別当職の役割を果たし、十数ヶ寺あった社僧を率いて法会や延年・晦日山伏など行っていた。
天正12年(1584)年仁和寺の任助法親王の滞在があり、以来仁和寺との関係を深め、現在は真言宗御室派の大本山になっている。また16世紀後半にはここで豊臣秀吉が和歌の会を行った。
代々の別当職は座主と称され、その起源は12世紀高倉上皇と平清盛などの参詣を記した「高倉院厳島御幸記」に記されている座主とされている。(境内掲示より)

境内掲示による大聖院の縁起

靈秀の峯嚴島多喜山に千百五十餘年の昔大同元年弘法大師の御開創と傳へ寶珠の山容巍然として雲表に聳え〇〇たる老樹累々たる巨巌の間に求聞〇道場不消の靈火三鬼堂等宗祖御修行の遺跡散在し頂上の展望は内海随一と言はれ開祖の芳躅を慕ふ修行寺三鬼大権現に歸依する信者頂上の展望を志す観光客等登山者常に斷へず。當院は其本坊にし鳥羽天皇勅願の道場たる本堂には波切不動尊を、観音堂には元嚴島神社本地堂本尊にして行基菩薩の作と傳へる十一面観音を安置す。天正年間には、後奈良天皇の御猶子任助法親王御留錫、明治十八年には、天皇御駐輦の御聖跡にして、明治維新前は代々の座主嚴島神社の別当職として祭祀を司り伽藍亦宏壮を極めたりしが惜いかな失火に依り明治二十年本坊諸堂を、翌年多喜山諸堂を焼失し一時荒廃したるも、爾来六十餘年間代々の山主専ら復興に努力し昭和三十四年を以て諸堂の再建修理等を完了し、寺格亦累進して昭和三十五年四月十二日大本山に昇格す。
真言宗御室派 大本山多喜山大聖院(境内掲示より)

「廣島縣史」による大聖院の縁起

昔は嚴島神社の別當職、世々之を座主と稱す、開基不詳、日輪上人中興康正二年武田國信佐伯郡神領を攻むるの日、神官僧侶廿日市櫻尾に防き戰ひしか、火を放ちければ、古記焼失、其殘餘は天文二十三年、天覧に供せんか爲、大僧都良辨斎して上京の途中、播磨室津沖にて水難に遇ひて失亡し、由緒の詳考ふべからず、高蔵天皇御幸の時、住職尊叡座主たり、天正中、仁和寺任助一品法親王(伏見貞敦親王御子)参籠し、良辨の遺弟良政、幼年の故に座主坊に止住し給へり、仍て當寺は、仁和寺の院家となり、供僧の外、承仕二院相屬す、明治十八年天皇の行在所に充てらる、二十年十月十日焼失、後再建の計畫ありて現に其一部を成就せり。(「廣島縣史」より)


いいお墓

大聖院の周辺図


参考資料

  • 「廣島縣史」