報専坊。広島県広島市中区にある浄土真宗本願寺派寺院

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報専坊。広島県広島市中区にある浄土真宗本願寺派寺院

報専坊の概要

浄土真宗本願寺派寺院の報専坊は、無障山と号します。報専坊は、元弘元年(1331)安北郡勝木村の菅澤山麓に創建、實相山法泉寺と号す真言宗寺院だったといいます。文明年間に圓位(富樫禅門大膳太夫)が蓮如上人の教化を受け、浄土真宗に改めて菅澤山報専坊と改号、慶長年間(1596-1615)に佐東郡上安村に移転し山号を無障山と改号、その後当地に移転しました。当寺12世慧雲(享保14年1729年生まれ)は浄土真宗の宗風を大いに鼓舞したものの、他宗徒の排斥を受けて天明元年(1781)山伏に放火され堂宇全焼、その後高弟廓亮等の諸僧により再建しています。もと佛護寺十二坊の一でした。

報専坊
報専坊の概要
山号 無障山
院号 -
寺号 報専坊
本尊 阿弥陀如来像
住所 広島市中区寺町3−3
宗派 浄土真宗本願寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



報専坊の縁起

報専坊は、元弘元年(1331)安北郡勝木村の菅澤山麓に創建、實相山法泉寺と号す真言宗寺院だったといいます。文明年間に圓位(富樫禅門大膳太夫)が蓮如上人の教化を受け、浄土真宗に改めて菅澤山報専坊と改号、慶長年間(1596-1615)に佐東郡上安村に移転し山号を無障山と改号、その後当地に移転しました。当寺12世慧雲(享保14年1729年生まれ)は浄土真宗の宗風を大いに鼓舞したものの、他宗徒の排斥を受けて天明元年(1781)山伏に放火され堂宇全焼、その後高弟廓亮等の諸僧により再建しています。

「廣島縣史」による報専坊の縁起

報専坊[もと佛護寺十二坊の一]
元弘中創立、もと安北郡勝木村天の城主松浦氏の菩提寺、眞言宗實相山法泉寺なり、文明中圓位(俗姓東樫)改宗して菅澤山報専坊といふ、後に佐東郡上安に、貞享中今の地に移る。(「廣島縣史」より)

「廣島市史社寺史」による報専坊の縁起

報専坊
報専坊は無障山と號す、寺町に在り、本尊は阿彌陀如来(安阿彌の作)なり、藩制時代は京都本願寺末派興正寺門弟東坊下佛護寺觸下、所謂十二坊の其一なりき、往古は實相山・法泉寺と號し、眞言宗にして、元弘元年安北郡(今の安佐郡の内)勝木村(一書には葛原とあり)行森(一書には雪森とあり)菅澤山(里言には「ズガンゾウ」といふ)の麓に創建す、其後文明年間圓位の時に至り、山城國山科にて蓮如上人の教化を亭け、初めて眞宗に改宗し、寺號を菅澤山・報専坊と改む、圓位は俗称富樫禅門大膳太夫と云ひ、其一族は安北郡勝木村行森に居城し、後ち毛利氏の爲に亡ぼさる、慶長年間圓位より七代の孫覺淳史の時、佐東郡上安村(今の安佐郡の内)「たいのさこ」に移り、故ありて山號を無障山と改む、元禄六年九代宗淳の時(一説に寛文の頃と云ふ)今の地に移る、安北郡勝木村の舊跡には、薬師木像一躰を安置せる一小堂現今尚ほ存し、里俗之を報専庵と呼べり、當寺十二代慧雲は廣島鹽屋町専勝寺僧義周の第二子にして、幼名を民部卿と云ひ、享保十四年正月十四日に生る、二歳の時、當坊十一代惠照の養子となる、資性温謙、幼にして大志あり、十七歳の時、京都に游び、宏山寺僧撲に從ひ、苦學して博く佛典に通じ、宗義を究む、得度して寶雲と號し、後ち慧雲に改む、字は子潤、甘露と號し、別に東岳洞水の雅號あり、京に在ること三年、業成りて後ち、其同窓越中の僧、僧鎔と東西旗幟を樹て、雷名學海に鳴る、慧雲藝州幟の名あり、門下には名髭森列し、廓亮・僧叡・雲幢・履善等最も傑出し、其頃氣を望むもの徳星藝州に聚れりと稱す、當時は眞宗の規格未だ備はらず、慧雲普く藩内を巡歴布教し、各村・各字毎に寄講なるものを設け、法義相續は勿論、社會風紀の改善を謀れり、當時これを化教と呼べり、其方法は略ば現今の組合講、又は教會組織に類似し、毎月各地とも其地方の寺僧を招聘して、法話會を開き、法義相續上より社交上の規約を定め置き、若し之に違背する者あるときは、同行弾と稱し、絶交を以て制裁を加ふ、此化教の區域を畫して、所轄寺院の制度を編み、其區域内の布教は其所轄寺院の僧侶に責任を負はしめ、布教の効果を収むると同時に寺院生活の安泰を計れり、又當坊の宗徒に往、戸内に神棚を造り、或は神符を貼るものあり、慧雲乃ち諭して神靈を瀆がすを恐れ、之を撤去せしむ、因りて時人『神棚卸しの報専坊』と綽名す、斯の如く一向専修の宗風を鼓吹すること極めて嚴正にして、國人の歸向益々厚く、安藝門徒の名實を得せしむるに至れり、然るに慧雲の此の勸化は、外に儒道・諸宗よりの攻撃となり、内に信徒の誤解を招き、一時は其身命も危きに陥る、天明元年十一月二十八日山伏某なるもの、慧雲の呪詛・禁厭・神符等を排斥せるを恨み、潜かに放火して當坊を焚き、堂宇什寶悉く灰燼に化す、實に慧雲遷化の前年なり、慧雲遷化するに先ち、高弟廓亮を招き、遺言して曰、余嚢に願生歸命辨の世に行はれたる時、心窃に後世必らず歸命の僻安心を唱ふる者あるべしと思へり、然るに余既に牢生を過ぎ、存命計り難し、後事汝に嘱す、能く同學と協力して、護法扶宗の誠に身心を捧げよと、後年廓亮等の諸僧が蹶然起て、三業説を排し、能く揆亂反正の偉功を奏し、正意安心の大光明を輝かしたるもの實に之に起因すと云ふ、天明七年十三代皆遵の時に至り、本堂を再建し、後ち寛政元年に庫裡を、文化七年に表門を再建す、明治十七年六月二日十七代寶嶽の時、釣鐘(無銘)を新鑄し、同三十二年鐘樓を新建し、次で同三十九年十八代龍教の時、本堂・庫裡・表門・墻塀の大修繕をなせり。(「廣島市史社寺史」より)


報専坊の周辺図


参考資料

  • 「廣島縣史」
  • 「廣島市史社寺史」