隆向寺。広島県広島市中区にある浄土真宗本願寺派寺院
隆向寺の概要
浄土真宗本願寺派寺院の隆向寺は、身入山と号します。隆向寺は、高田郡吉田の人船四郎左エ門とその長子眞次郎が、広島城築城の頃当地に来住、福島氏の時に眞行寺と号して創建したといいます。正保4年(1648)本寺が東派へ転じた際、当寺は西派にとどまり、寺号を隆向寺と改称、二代周海の時、藩主淺野綱長より大乗妙典の書写を命ぜられ、以後歴代登城謁見を許されていたといいます。
山号 | 身入山 |
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院号 | - |
寺号 | 隆向寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 広島市中区大手町3−2−21 |
宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
隆向寺の縁起
隆向寺は、高田郡吉田の人船四郎左エ門とその長子眞次郎が、広島城築城の頃当地に来住、福島氏の時に眞行寺と号して創建したといいます。正保4年(1648)本寺が東派へ転じた際、当寺は西派にとどまり、寺号を隆向寺と改称、二代周海の時、藩主淺野綱長より大乗妙典の書写を命ぜられ、以後歴代登城謁見を許されていたといいます。
「廣島縣史」による隆向寺の縁起
隆向寺
身入山
明起(吉田の人、船四郎左エ門長男、眞次郎)天正十九年當地に移り、寛永十三年創立、初名眞行寺、専勝寺末たりしか、正保四年専勝寺東派となりし時、本山直末となり、今の寺號に改む。(「廣島縣史」より)
「廣島市史社寺史」による隆向寺の縁起
隆向寺
隆向寺は、身入山と號す、大手町六丁目に在り、本尊は阿彌陀如来なり、僧明超を開基となす、毛利氏廣島城築城の初め頃、明超は父の四郎左衛門と共に高田郡吉田より来り、現今の地に宅地を得て居住せしが、福島氏の時、始めて當寺を建立し、眞行寺と號し、専勝寺の末寺と爲りしも、同寺の東派に轉せし時、分離して正保四年十一月西本願寺の直末となり、同寺を隆向寺と改稱す、二代周海の時、藩主淺野綱長より周海に大乗妙典を紺紙金泥にて書寫の命を蒙り、新たに寺内に寫經室を構え、「鷹の羽」徽章の釣鐘を賜はる、浄寫の後ち褒銀を賜はり、特に登城謁見を聴されしを以て、之時より維新前まで代々年頭謁見に登城するを例となす、本尊木佛阿彌陀如来は寶暦八年四月の大火に罹災せしが故に、現今の本尊は其後に新造して安置せるものなり、其後ち本堂を再建し、庫裡は假建築なりしが、明治三十五年十三代月照の時、庫裡を再建し、同三十九年本堂の大修繕をなせり。(「廣島市史社寺史」より)
隆向寺の周辺図
参考資料
- 「廣島縣史」
- 「廣島市史社寺史」