誓願寺。広島県広島市西区にある浄土宗寺院

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誓願寺。広島県広島市西区にある浄土宗寺院

誓願寺の概要

浄土宗寺院の誓願寺は、紫雲山光照院と号します。誓願寺は、毛利輝元公が惠空に帰依し、材木町(平和公園地)に天正18年(1590)創建、惠空は天智天皇宸筆の額「誓願寺」を本山より拝領してきたことから誓願寺と号したといいます。淺野藩時代には釈迦堂・地蔵堂・鎮守堂・阿彌陀堂・門山堂等を擁し、准香華寺とされていました。第二次世界大戦に際し、原子爆弾に被災し焼失、昭和38年当地に移転再建しています。

誓願寺
誓願寺の概要
山号 紫雲山
院号 光照院
寺号 誓願寺
本尊 阿弥陀如来像
住所 広島市西区三滝本町1-17-1
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



誓願寺の縁起

誓願寺は、毛利輝元公が惠空に帰依し、材木町(平和公園地)に天正18年(1590)創建、惠空は天智天皇宸筆の額「誓願寺」を本山より拝領してきたことから誓願寺と号したといいます。淺野藩時代には釈迦堂・地蔵堂・鎮守堂・阿彌陀堂・門山堂等を擁し、准香華寺とされていました。第二次世界大戦に際し、原子爆弾に被災し焼失、昭和38年当地に移転再建しています。

「廣島縣史」による誓願寺の縁起

(材木町)誓願寺
天正九年毛利輝元公開山惠空(三河岡崎の人、京都本山圓福寺住)に歸依して、當山を吉田に創む。翌年十月本堂落成の時、正親町天皇の勅に依り、本山誓願寺に傳来の天智天皇宸筆の寺號額面を賜ひて、勅願寺とせらる、故に往昔當寺住職の任は、綸旨を奉戴するの例なり、天正の末廣島に移る、(當時芦原沼等なしりを、開きたりと云傳ふ。)當寺初圓福寺末派に屬し、三世雲翁中興して本山誓願寺の別院とす、淺野家時代には准香華寺となり、明治九年十二月准檀林地となる今の本堂は元禄元年五月、辨室上人再建、本尊は惠空感得の靈像なり、尚外に舊正覺院(慶長四年惠空創立の塔頭、中古毀廢。)の本尊阿彌陀佛あり。(「廣島縣史」より)

「廣島市史社寺史」による誓願寺の縁起

誓願寺は紫雲山・光照院と號す、材木町に在り、藩制時代は京都誓願寺の末寺にして、浄土宗西山派に屬し、慈仙寺と交番觸頭たり、本尊は開山惠空感得の阿彌陀如来なり、開山惠空は本山貫主教山の法弟にして、本山所蔵天智天皇御宸筆『誓願寺』の扁額を貫主より授かり、當國に奉持して来り、天正十八年十月當寺を開基す、是より先き當寺境内は蘆葦叢生の沼澤たりしを、惠空小舟に棹し、地を相し、榜木を以て區劃を定め、埋築して一寺を創建す、爾時紫雲見はる、因て山號となすといふ、もと院號なし、享保年間安価辻肥前の法名光照院に取りて附せしものならん、舊藩時代には幕府御巡見衆及び諸侯伯の當市に宿泊ある毎に(大抵白神社一町目御客屋に宿泊せらる)當寺を以て其被災所と定め、毎年藩府宗旨判御改の時は、宗旨奉行當寺に於て臨検し、又遊行上人の廻國或は信州善光寺如来の巡歴の際は、いつも其宿坊とせられ、遊行上人尾長東照宮に社参の時は、當寺の主僧其先導を爲し、善光寺如来一行出發の時は、横川橋まで見送り、其時佛護寺(今の本派本願寺別院)に當寺の休憩所を構へたりと云ふ。(「廣島市史社寺史」より)


誓願寺の周辺図


参考資料