高館義経堂。平泉町平泉柳御所の名所旧跡

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高館義経堂。源義経居館跡地に伊達綱村が建立

高館義経堂の概要

高館義経堂は、平泉町平泉柳御所にある名所旧跡です。高館義経堂は、源頼朝に追われて逃れてきた源義経が、藤原秀衡より与えられた居館の地で、源義経の官位「判官」から判官館とも称されてきたといいます。源頼朝の圧力に屈した藤原泰衡は、源義経を攻め、義経および妻子は当地で自害したと伝えられています。天和3年(1683)仙台藩主伊達綱村公が義経を偲んで義経堂を建立、元禄2年(1689)に当地を訪れた松尾芭蕉が詠んだ句「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」は、ここで詠まれたものといいます。毛越寺が管理しています。

高館義経堂
高館義経堂の概要
名称 高館義経堂
みどころ -
区分 特別史跡
住所 平泉町平泉柳御所14
備考 毛越寺が管理



高館義経堂の由緒

高館義経堂は、源頼朝に追われて逃れてきた源義経が、藤原秀衡より与えられた居館の地で、源義経の官位「判官」から判官館とも称されてきたといいます。源頼朝の圧力に屈した藤原泰衡は、源義経を攻め、義経および妻子は当地で自害したと伝えられています。天和3年(1683)仙台藩主伊達綱村公が義経を偲んで義経堂を建立、元禄2年(1689)に当地を訪れた松尾芭蕉が詠んだ句「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」は、ここで詠まれたものといいます。

「岩手県町村誌」による高館義経堂の由緒

(平泉村)
▲高館
衣川館ともいふ、源義経の舊跡なり里俗之を判官館ともいふ、今其所在を高館といふ西北の高地に義経堂あり、義経の木像を安置す東南に新山社あり堂頭は老木蔚茂し堂後の山地切斷せり裏面は斷岸數十丈にして北上川の曲流を見仰いで東山の群峰を見る、其の眺望最も奇絶なり。(「岩手県町村誌」より)

義経堂栞による高館義経堂の由緒

高館義経堂
高館は北上川に面した丘陵で、判官館(はんがんだて、ほうがんだて)とも呼ばれています。現在では、その半ばを北上川に浸蝕され狭くなっていますが、この一帯は奥州藤原氏初代清衡公の時代から、要害地とされていました、兄・頼朝に追われ、幼少期を過ごした平泉に落ち延びた源義経公は、藤原氏三代秀衡公の庇護のもと、この高館に居館を与えられました。地元で判官館と呼ばれているのは、義経が判官の位にあったことに由来します。しかし、文治五年(一一八九)閏四月三十日、頼朝の圧力に耐えかねた秀衡公の子・泰衡の急襲にあい、この地で妻子とともに自害したと伝えられています。丘の頂上には、天和三年(一六八三)、仙台藩主伊達綱村公が義経を偲んで建てた義経堂があり、中には義経公の木像が安置されています。高館からの眺望は平泉随一といわれ、東にとうとうと流れる北上川、束稲山(別名・東山)が見えます。又西からは、かつてその流域で前九年・後三年の役の戦いの場であり、弁慶立往生の故事でも知られる衣川が北上川に合流しています。(義経堂栞より)

境内掲示による高館義経堂の由緒

ここ高館は、義経最期の地として伝えられてきた。
藤原秀衡は、兄頼朝に追われ逃れてきた義経を平泉にかくまう。しかし秀衡の死後、頼朝の圧力に耐えかねた四代泰衡は、父の遺命に背いて義経を襲った。文治五年(一一八九年)閏四月三十日、一代の英雄義経はここに妻子を道連れに自刃した。
時に義経三十一歳。
吾妻鏡によると、義経は「衣河舘」に滞在していたところを襲われた。今は「判官館」とも呼ばれるこの地は、「衣河舘」だったのだろうか。
ここには、天和三年(一六八三年)伊達綱村の建立した義経堂があり、甲冑姿の義経の像が祀られている。
頂上からの眺望は随一で、西に遠く奥州山脈、眼下に北上川をへだてて東に束稲の山なみが眺められる。
束稲山は往時、桜山とも呼ばれ、西行が山家集で「ききもせず 束稲山の桜花 吉野のほかにかかるべしとは」と詠じた。
また、元禄二年、俳聖松尾芭蕉が「おくのほそ道」で詠んだ「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」はこの場所といわれている。(平泉町観光協会掲示より)


高館義経堂の周辺図


参考資料

  • 「岩手県町村誌」