源義経公妻子の墓・千手堂。平泉の鎮守の一つ
源義経公妻子の墓・千手堂の概要
源義経公妻子の墓・千手堂は、平泉町平泉花立にある名所旧跡です。源義経公妻子の墓・千手堂は、寺院千手院が管理している墓・堂宇で、源義経公妻子の墓とされる墓は、金鶏山の山麓にあったものを当地へ移して供養しているといいます。また千手堂は、千手観音像安置を本尊として、弁財天尊や藤原三代将軍の御位牌などを安置しています。
名称 | 源義経公妻子の墓・千手堂 |
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みどころ | - |
区分 | 史跡 |
住所 | 平泉町平泉花立4-62 |
備考 | - |
源義経公妻子の墓・千手堂の由緒
源義経公妻子の墓・千手堂は、寺院千手院が管理している墓・堂宇で、源義経公妻子の墓とされる墓は、金鶏山の山麓にあったものを当地へ移して供養しているといいます。また千手堂は、千手観音像安置を本尊として、弁財天尊や藤原三代将軍の御位牌などを安置しています。
「岩手県町村誌」による源義経公妻子の墓・千手堂の由緒
(平泉村)
▲千手堂
金鶏山の東麓にあり定朝作の千手觀音を安置す、秀衡の守り本尊なり此側に秀衡の木像あり(「岩手県町村誌」より)
境内掲示による源義経公妻子の墓について
源義経公妻子の墓
源頼朝の威圧に依って藤原泰衡が高館に義経公を襲った。義経公は北の方と幼児を殺害し、自害したと伝えられる。時は平安時代の文治五年(西紀一一八九)閏四月三十日、三十一歳で最期を遂げられた。
このお墓は、高館で悲しくも露と消えた妻子の墓と伝えられているが、元は千手院境内で、ここから約三百米程の西北金鶏山の山麓にあったが、ここに墓石を遷し供養を怠らない。(境内掲示より)
源義経公妻子の墓・千手堂の周辺図
参考資料
- 「岩手県町村誌」