萬歳山長松院。盛岡三十三観音3番
長松院の概要
臨済宗妙心寺派寺院の長松院は、萬歳山と号します。長松院は、聖寿寺住職の涼室宗蔭(仏恵広照禅師)を勧請開山として、その弟子法岩常公和尚が寛永年間(1624-1644)に開創、聖寿寺住職の隠居寺だったといいます。中・下級武士は藩主の菩提寺に墓所を求められなかったことから、当寺が利用されるようになり、元禄2年(1689)に当寺住職となった大輪祥睦和尚の代に寺院の様相を呈し、中興開山したといいます。盛岡三十三観音3番です。
山号 | 萬歳山 |
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院号 | 長松院 |
寺号 | - |
住所 | 盛岡市大慈寺町2-2 |
宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
長松院の縁起
長松院は、聖寿寺住職の涼室宗蔭(仏恵広照禅師)を勧請開山として、その弟子法岩常公和尚が寛永年間(1624-1644)に開創、聖寿寺住職の隠居寺だったといいます。中・下級武士は藩主の菩提寺に墓所を求められなかったことから、当寺が利用されるようになり、元禄2年(1689)に当寺住職となった大輪祥睦和尚の代に寺院の様相を呈し、中興開山したといいます。
「盛岡の寺院」による長松院の縁起
開山・縁起
当山は、寛永年間(一六二四~四四)本寺聖寿寺(北山)涼室宗蔭(仏恵広照禅師)を勧請開山として、弟子法岩常公和尚が開創した寺である。恵宗可公、久峯昌公・止叟端公を経て元禄二年(一六八九)に至り、聖寿寺の大道和尚の伝法を得た大輪祥睦和尚が当院に住職し、その構築を一新して中興開山となり、長松院の基礎を確立し、開創より十六代を経て現在に至っている。なお、本尊は釈迦牟尼仏である。
寺院沿革
当山は、開創当初南部家の菩提所聖寿寺の住職が閑栖(隠居)するための院であり、隠居寺であったと伝えられる。中級、下級の武士は藩主の寺に墓所を求めるも、許されないため当山に墓所を求めたようである。大輪祥睦和尚(一六八九)の頃、寺院の様相を呈するに至り、漸次武士の寺へと変遷してきたのである。従って聖寿寺の末寺として出発した。 (「盛岡の寺院」より)
長松院所蔵の文化財
- 子安延命地蔵菩薩坐像(盛岡市指定文化財)
子安延命地蔵菩薩坐像
ひば材寄木造の黒漆錆塗り像である。相好は平らな頭長、面長で鼻筋が鋭くとおり、口は横一文字、耳はやや平滑で長く大きい。地方仏師の作によく見られる像容であり、穏やかな表情である。衣は偏袒右肩で、彫りが直線的である。持物は左手に宝珠を載せ、右手は内五股印(忿怒印)を結び、錫杖を持つ。これは他に見られない珍しい形で、子安延命の強い働きを所期しての印相である。極めて特色のある、室町期の地方作として貴重である。
本来この像は、三戸城に祀られていたものである。盛岡城の築城により、四代藩主重信の側室長慶院が、上田に高源寺を建立して迎え供養されてきた。没後、聖寿禅寺に移されたが、住職大道和尚は、庶民の参詣を考え、長松院を拡大整備して移したと伝えられている。(盛岡市教育委員会掲示より)
長松院の周辺図
参考資料
- 「盛岡の寺院」(盛岡市仏教会)