永祥院。酒買地蔵尊
永祥院の概要
曹洞宗寺院の永祥院は、水養山と号します。永祥院は、三戸郡名久井村白華山法光寺第十世満室存芸大和尚が布教のために各地を巡錫、滝沢村鵜飼の孫右衛門が帰依し一寺を建立、満室存芸大和尚(元和9年1623年寂)が開山したといいます。第二世守室玄秀大和尚の代、寛永年間(1624-1645)に当地へ移転、南部藩の方針に服せず、報恩寺の末寺になることを拒んだことから、寺領拝禄不可となったといいます。当時に奉安されている酒買地蔵尊は、人に化けて酒を買い求めていたと伝えられる地蔵尊で、奉賛会により護持されています。
山号 | 水養山 |
---|---|
院号 | 永祥院 |
寺号 | - |
住所 | 盛岡市材木町4-10 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
永祥院の縁起
永祥院は、三戸郡名久井村白華山法光寺第十世満室存芸大和尚が布教のために各地を巡錫、滝沢村鵜飼の孫右衛門が帰依し一寺を建立、満室存芸大和尚(元和9年1623年寂)が開山したといいます。第二世守室玄秀大和尚の代、寛永年間(1624-1645)に当地へ移転、南部藩の方針に服せず、報恩寺の末寺になることを拒んだことから、寺領拝禄不可となったといいます。
「盛岡の寺院」による永祥院の縁起
開山・縁起
青森県三戸郡名久井村、白華山法光寺の末寺で、法光寺第十世満室存芸大和尚の開山である。存芸大和尚、法光寺在住の時、大本山越前永平寺の命により、布教のため各地を巡錫中、岩手郡鵜飼村(現滝沢村鵜飼)滞在の折、上鵜飼、孫右衛門が大和尚に深く帰依し村内の有力者と共に一寺を創立、伽藍山門を上鵜飼に建立、元和九年(一六二三)三月十三日に遷化。第二世守室玄秀大和尚の代になり、寛永年間に現在の場所に移転した。本尊は釈迦牟尼仏である。
寺院沿革
材木町移転時、南部藩では報恩寺の支配下に置こうとしたが、命に服せず、拝禄不可となった。
元禄・宝暦・天明・天保と大飢謹が相次ぎ(南部四大飢鐘)特に宝暦五年(一七五五)の飢饉は被害甚大で被害者十万人余りに達したといわれ、当院でも藩の救済策に呼応して救済に当たり、翌年二月末には一一七〇人を収容した。(「盛岡の寺院」より)
永祥院所蔵の文化財
文化財ではありませんが、酒買地蔵尊は地元で信仰を集めているといいます。
酒買地蔵尊由来記
むかし、材木町のある酒屋さんに、毎晩お酒を買いにくる物言わぬ小僧がおりました。ある晩のこと、貸した小樽を返さぬことに腹を立てた番頭は客の小僧の頭を木槌でなぐってしまいました。けれども、よろよろ帰って行く小僧さんの身を案じた酒屋の主人は、そっとあとをつけました。
このお堂の前まで来ると不思議に姿が見あたりません。驚いてお堂の中をのぞいてみると、何とお地蔵さんを見上げると眉間に傷がついているのではありませんか。「お客様には親切にしてお上げなさい。」と酒屋さんの耳に鈴のような声がきこえました。勿体ないことをした、毎晩このお地蔵様が化身されてお酒を買いに来られたのだ、心から悔やみました。この後、親切第一に商売に励み縁日にはお酒を供えておまつりをしました。
お店は大繁昌、健康にも恵まれ、賢い子宝にも恵まれました。代々栄えたこの酒屋の話は江戸時代享保の頃から今に語りつがれております。(酒買地蔵尊奉賛会掲示より)
永祥院の周辺図
参考資料
- 「盛岡の寺院」(盛岡市仏教会)