長誓山光照寺。信圓房開基
光照寺の概要
真宗大谷派寺院の光照寺は、長誓山と号します。光照寺は、公郷吉田大納言信明に仕えていた千原長左衛門尉信秀が親鸞聖人に謁見、剃髪染衣して信圓と改めて紫波郡彦部村に巡錫、彦部山光照寺を開基したといいます。天正年間(1573)三ツ割の地に移転、江戸時代中期に山号を長誓山と改め、明治30年火災により当地へ移転したといいます。
山号 | 長誓山 |
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院号 | - |
寺号 | 光照寺 |
住所 | 盛岡市本町通2-6-24 |
宗派 | 真宗大谷派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
光照寺の縁起
光照寺は、公郷吉田大納言信明に仕えていた千原長左衛門尉信秀が親鸞聖人に謁見、剃髪染衣して信圓房と改めて紫波郡彦部村に巡錫、彦部山光照寺を開基したといいます。天正年間(1573)三ツ割の地に移転、江戸時代中期に山号を長誓山と改め、明治30年火災により当地へ移転したといいます。
「盛岡の寺院」による光照寺の縁起
開山・縁起
当寺は、真宗大谷派本山東本願寺の直系の末寺に属し、開基信圓房は宗祖親鷲聖人面授の門弟である。
信圓の俗姓は千原長左衛門尉信秀。代々大和国(現奈良県)に住み、源氏の支族だったが、治承の乱(四年五月、一一八〇)に信圓の父は源頼政の下にいたが、頼政勢は敗れ、丹波国(京都府)氷上郡千原の里に隠棲した。信圓はそこで呱々の声を挙げている。(註:一一七五年は法然上人が浄土宗をひらき、一一八五年には平家壇浦に滅ぶ)
信圓は、長ずるに及び、青雲の志を抱いてひそかに京洛に入り、公郷の吉田大納言信明に仕えたが、信明の左遷とともにその配所に追随して、相互に境遇の転変に感傷し、人の世の無常に想いをいたし、遂に親鷲聖人に謁して、他力本願に帰し、剃髪染衣して法名を信圓と呼ぶようになった。
その後、建保年中(鎌倉時代、一二一三年。今から約七百七十余年前)信明(是信房)と共に師命を承けて、教化のために紫波郡彦部村に錫をとどめたが、文永二年(一二六四)三月二十五日その草庵で寂した。これが彦部山光照寺の根基である。
寺院沿革
元禄以後に山号を長誓山と称したが、今では確証はないが、あるいは元禄の大火に類焼して再建する際に領主から雫石村長山の山林から用材を若干賜った因縁を記念するため山号を改称したというが、古記はその後灰燼に帰して、いまは後日の考証に俟つしかない。
爾来、子孫相承けて連綿伝持して第十七世圓誓に至り、天正年間(一五七三)、盛岡の北郊三ツ割の地(現在の三石神社うしろ)の地を卜してその地に転じ、一宇を創立して移った。
その後、明治三十年四月一目、回禄(火事) に罹り、更にいまの地(本町通二丁目) に明治三十五年十一月十七日移趾し、仮堂を再建して今日に至っている。(「盛岡の寺院」より)
光照寺の周辺図
参考資料
- 「盛岡の寺院」(盛岡市仏教会)