慶雲山臨江庵。市指定文化財の十王像十体
臨江庵の概要
臨済宗妙心寺派寺院の臨江庵は、慶雲山と号します。臨江庵の創建年代等は不詳ながら、天台宗の修行僧が池に臨んで庵を営み、臨江庵と号したと伝えられます。その後無住となっていたものの、静岩祖因首座(延宝8年1680年寂)が臨済宗に改め、延宝3年(1675)に開山したといいます。
山号 | 慶雲山 |
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院号 | - |
庵号 | 臨江庵 |
住所 | 盛岡市大慈寺町2-1 |
宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
臨江庵の縁起
臨江庵の創建年代等は不詳ながら、天台宗の修行僧が池に臨んで庵を営み、臨江庵と号したと伝えられます。その後無住となっていたものの、静岩祖因首座(延宝8年1680年寂)が臨済宗に改め、延宝3年(1675)に開山したといいます。
「盛岡の寺院」による臨江庵の縁起
開山・縁起
禅宗であるところから、臨江禅庵ともいわれている。
宗旨は、お釈迦さまの正法を受けつがれた初祖達磨大師、宗祖臨済禅師、さらに開山無相大師に及ぶ一流の禅を宗旨及び教義としている。
本山は、正法山妙心寺(京都市花園)で、建武四年(一三三七)第九十五代花園法皇の勅願によって創建され、全国に末寺は三千五百ケ寺ある。
本尊は、釈迦牟尼世尊をひとしく大思教主と仰いで尊崇し因縁により、釈迦如来をお祀りしてある。
臨江庵は、今から約三百六十年前、南部家の菩提寺である大光山聖寿寺の末寺として開かれた寺であるが、元来は天台宗であり、また祈祷寺であったと伝えられていた。
その当時、この地は北上川河道変遷の中にあって、辺りは沼や沢であり、非常に風光明娼な絶景の地であったといわれている。
ある日、いずれからか来た天台宗の一修行僧がこの地を通りかかり、あまりにも景色がよく、この地で余生を過ごしたいと思い、草庵を建立して、その庵を池に臨んで建てたことから、臨江庵と称したと伝えられている。
その僧が没した後は、しばらく無住の期間が続いたが、当地の城主である南部家の勢威とともに臨済の宗風が領内に盛んとなって来た折、聖寿寺中興開山大道生安禅師の代、すなわち延宝三年(一六七五) にその高弟であった静岩祖因首座を第一世とし、臨済宗の寺院として面白を改め、今から約三百六十年前に開山された。その開山は延宝八年(一六八〇)二月二十三日にこの世を去ったといわれている。
なお、偉僧佐藤祖琳師(花巻市長久寺再中興)が当庵を多年にわたり兼務する。 (「盛岡の寺院」より)
臨江庵所蔵の文化財
- 十王像十体(盛岡市指定文化財)
十王像十体
秦広王、初広王、宋広王、五官王、閻魔王、変成王、大山王、平等王、都市王、五道転輪王の十王像すべてが、寄木造の彩色像である。各像の面相、形状に多少違いは見られるが、全体に金泥を塗り、彩色を施す技法や彫法が共通し、同一仏師の製作になるものと見られる。造り込みも丁寧である。江戸初期の終わりから中期初頭にかけての製作と見られ、この大きさで十王像がそろって居るのは県内でも珍しい。
十王信仰は、初七日から三回忌までの十忌日に、地獄を支配する十王が、順に裁判官として死者の生前の罪業を裁くというもので、死者の供養と結び付き、六道救済を十王による裁定の軽減の形で表現するようになった現れである。この十王信仰は中国で唐時代から盛んになったが、日本には鎌倉時代に請来されている。盛岡における十王信仰を知る上でも貴重である。(盛岡市教育委員会掲示より)
臨江庵の周辺図
参考資料
- 「盛岡の寺院」(盛岡市仏教会)