虎嶽山龍谷寺。国天然記念物のモリオカシダレ
龍谷寺の概要
曹洞宗寺院の龍谷寺は、虎嶽山と号します。龍谷寺は、報恩寺六世善室梵積大和尚が江戸時代初期頃(1618〜1630)に開山開基したといいます。龍谷寺のモリオカシダレは国天然記念物に指定されています。
山号 | 虎嶽山 |
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院号 | - |
寺号 | 龍谷寺 |
住所 | 盛岡市名須川町7-2 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
龍谷寺の縁起
龍谷寺は、報恩寺六世善室梵積大和尚が江戸時代初期頃(1618〜1630)に開山開基したといいます。
「盛岡の寺院」による龍谷寺の縁起
報恩寺六世善室梵積大和尚の開山開基で、開創年代は不明であるが、開山が報思寺に住職していたのは元和四年(一六一八) から寛永七年(一六三〇)であるので、その間と認められる。(「盛岡の寺院」より)
龍谷寺所蔵の文化財
- 龍谷寺のモリオカシダレ(国指定天然記念物)
龍谷寺のモリオカシダレ
この桜は、大正9年(1920)、国の天然記念物調査員三好学先生が龍谷寺で発見された新種で、エドヒガンオオシマザクラの雑種である。樹性はシダレ性で、シダレヒガンに近く、葉形はソメイヨシノに近い。裏面が殆ど無毛、子房も無毛である。平成5年(1993)の測定によれば、根本周2.2m、樹高6.1m、枝張り8.0m、主幹の大部分が腐朽し、辺材の一部が生きて生育を続けている。総樹齢は150年ぐらいといわれ、交雑種樹木の最大値に近いものと認められている。昭和11年9月3日、国の天然記念物に指定された。(境内掲示より)
啄木遺蹟(五)龍谷寺
啄木の母方の伯父葛原対月がこの龍谷寺の住職をつとめたのは、明治四年から同二十八年までの足かけ二十五年の長きにわたって居り、対月の弟子であった啄木の父一禎と対月の妹である啄木の母カツの縁が結ばれたのもこの寺であった。少年時代の啄木は、しばしばこの寺を訪ずれて、伯父対月から詩歌の手ほどきをうけたと伝えられている。(盛岡観光コンベンション協会掲示より)
蛇口安太郎の碑
蛇口安太郎は旧姓を久保田と言い、天保10年(1839)3月1日盛岡市花屋町近くの農家に生まれた。幼少の頃から衆に秀で、学問・剣術が好きで侍になることが夢。幕末はそれを可能とした時代でもあり、父の計らいで持参金つきで蛇口家の養子となり、長じて藩より有為の士として江戸留学を命ぜられ、北辰一刀流の千葉道場に学んだ。
当時の千葉道場は、攘夷討幕理論を奉ずる多感な若者達の熱気に溢れ、武田耕雲斎・藤田小四郎ら尊王攘夷を旗印とする急進的水戸学派が中心となった水戸天狗党の筑波山挙兵に当たり、道場の学友と共に安太郎もこの義挙に馳せ参じた。
この動乱は元治元年(1864)3月に始まり、関東一円を兵火にさらし、翌慶応元年(1865)2月義挙の指導者全員が雪の北陸で処刑され幕を閉じる。その数ヶ月前、北辰一刀流の剣の冴えで有名を馳せた蛇口安太郎も、最大の戦いの場であった常州那珂湊(茨城県)で、終結した幕軍の軍船からの十字砲火に傷つき落命。時に元治元年9月30日、享年25歳であった。
この碑は、原敬が政友会総裁になった翌年の大正4年11月、蛇口安太郎に対し従五位の追贈があったのを記念し菩提寺に建てられたもので、篆額は南部利淳、碑文は岩手県属岡山直機、書は新渡戸仙岳の手になる。(龍谷寺掲示より)
龍谷寺の周辺図
参考資料
- 「盛岡の寺院」(盛岡市仏教会)