正一位霊験稲荷社。足利市昌平町の神社

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正一位霊験稲荷社。旧足利学校の鎮守

正一位霊験稲荷社の概要

正一位霊験稲荷社は、足利市昌平町にある神社です。正一位霊験稲荷社の創建年代等は不詳ながら、足利学校の鎮守として勧請され、足利学校七世庠主玉崗瑞璵(九華)が天文23年(1554)に再建、霊験あらたかで信仰を集めたことから、足利学校十六世庠主千渓元泉が明和7年(1770)に正一位如意霊験と尊崇し、正一位霊験稲荷社と改めたといいます。爾来足利学校境内の図書館近くに祀られていましたが、明治42年(1909)当地へ遷されています。

正一位霊験稲荷社
正一位霊験稲荷社の概要
社号 稲荷社
祭神 稲倉魂命
相殿 -
境内社 -
祭日 2月初午
住所 足利市昌平町
備考 -



正一位霊験稲荷社の由緒

正一位霊験稲荷社の創建年代等は不詳ながら、足利学校の鎮守として勧請され、足利学校七世庠主玉崗瑞璵(九華)が天文23年(1554)に再建、霊験あらたかで信仰を集めたことから、足利学校十六世庠主千渓元泉が明和7年(1770)に正一位如意霊験と尊崇し、正一位霊験稲荷社と改めたといいます。爾来足利学校境内の図書館近くに祀られていましたが、明治42年(1909)当地へ遷されています。

境内掲示による正一位霊験稲荷社の由緒

正一位霊験稲荷社縁起
この正一位霊験稲荷社は、足利学校第七世庠主玉崗瑞璵(九華)が書いた天文二十三年(一五五四)九月の棟札に、足利学校の鎮守である稲荷大明神が、年代が古く神体・社殿ともに破損しているので、あらたに神体を造立し、社殿を造営し、八幡大菩薩を合せ祀ったとあるから、稲荷社の創建は天文二十三年(一五五四)よりかなり時代がさかのぼるとおもわれる。
江戸時代この稲荷社は、霊験あらたかで足利の町の人々をはじめ近郷近在の人々が信仰し、祭礼におおぜいの人々が参詣した。またこの稲荷社の狐は、足利の町に異変がおこりそうな時は、前の晩なっどに危険を知らせて人々を守ったのえ、人々から大事にされたという。
江戸時代足利学校では毎年十一月に、御供小豆飯をわらにのせ、狐の穴に供えていた。この稲荷社が霊験あらたかなので、明和七年(一七七〇)第十六世庠主千渓元泉が、もとの稲荷大明神を改め、正一位如意霊験と尊崇し、正一位霊験稲荷社とした。
社殿は天文二十三年(一五五四)創建当時のものと思われるが、明和九年(一七七二)あらたに梅や竜などの彫刻を社殿にとりつけた。
参道にある灯籠は、元文二年(一七三七)に足利町の石井新五兵衛・亀田市郎兵衛の寄進、水屋の手水鉢は江戸の大井権左衛門の寄進であり、明治四十二年(一九〇九)図書館のところにあった社殿とともに現在地に移された。
神前には佐野の天明で作られた灯籠がある。
平成十一年十一月吉日(境内掲示より)

「足利市史」による正一位霊験稲荷社の由緒

稲荷神社(無格社)昌平町
本市昌平町聖廟外道路の西に在り。もと境内にありたるを、明治四十二年、現在の地に移さる。祭神は、稲倉魂命。祭日は、二月初午。社殿は、間口三間・奥行四間半、境内に五社明神あり。祭神は、太田命・稲倉魂命・保食命。大已貴命・大宮姫命の五柱なり、由緒未詳なるも、「足利學校境域の鎮守」として祀りしものなるべし。
足利學校繪圖(寛文年中作製)中に、境域の西南に、此の社あり
境内に、元文五年(紀元二四〇〇年)、奉納の石燈籠一對あり。(「足利市史」より)


正一位霊験稲荷社の周辺図


参考資料

  • 「足利市史」