足利富士女浅間神社。足利市田中町の神社

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足利富士女浅間神社。市民俗文化財の初山ペタンコ祭、足利富土

足利富士女浅間神社の概要

足利富士女浅間神社は、足利市田中町にある神社です。足利富士女浅間神社は、従五位下足利(藤原)大夫成行が当地を領有、足利築城の砌りに勧請されたと伝えられます。足利長尾氏は当地に富士山城を築城、豊臣秀吉に敗れた長尾氏は滅亡したものの、足利八景の一つ「足利富土」と称され、もう一つの足利富士男浅間神社に対して、当社を女浅間神社、または上の宮に対して下の宮と称されています。初山ペタンコ祭は足利市民俗文化財に指定されています。

足利富士女浅間神社
足利富士女浅間神社の概要
社号 浅間神社
祭神 木花咲耶毘売命
相殿 -
境内社 -
祭日 ペタンコ祭6月1日
住所 足利市田中町240
備考 -



足利富士女浅間神社の由緒

足利富士女浅間神社は、従五位下足利(藤原)大夫成行が当地を領有、足利築城の砌りに勧請されたと伝えられます。足利長尾氏は当地に富士山城を築城、豊臣秀吉に敗れた長尾氏は滅亡したものの、足利八景の一つ「足利富土」と称され、もう一つの足利富士男浅間神社に対して、当社を女浅間神社、または上の宮に対して下の宮と称されています。

「栃木県神社誌」による足利富士女浅間神社の由緒

浅間神社(旧無格社)
当社は、上浅間神社ともいって天喜年間、藤原秀郷七世の孫、従五位下足利大夫成行上州淵名の郷より移り、足利築城の砌りその念願により勧請したと伝えられている。この地は足利富土として古くから世に知られている。明治三十五年渡良瀬川の架橋に次いで、雙峯の間に道路を作り、次に鉄道をひいたため、上下の連絡全く絶えて、上浅間神社は参道もなくなり、社殿は荒廃した。
昭和九年六月十四日社殿改築の許可を受け現在の社殿に改築。(「栃木県神社誌」より)

境内掲示による足利富士女浅間神社の由緒

当神社は天喜二年(一〇五四)藤原秀郷公七世の孫藤姓足利氏の祖従五位下足利大夫成行公が足利城築城に際し勧請されたと伝えられており古来より足利富士として信仰され上の宮と下の宮との二社から成り上を男浅間、下を女浅間と称し崇拝されております。現在の上の宮は昭和十年に改築され下の宮も平成七年に改築されました。
初山ペタンコ祭は江戸中期に始められたと伝えられています。当時の足利は富士信仰が盛んに行われ大勢の信徒、行者、先達がおり広く信仰されていました。中に当所代官田部井政右右衛門の名前も境内石碑に残されています。
その頃足利を流れる渡良瀬川が毎年氾濫し飢饉となり疫病が流行多くの幼い生命を奪われ困った人々は神社のご朱印を子供達の額に押し御神威で幼い生命を守ろうと始めたのが今日迄伝承されております。
此の祭は足利市重要文化財民俗文化財に指定されております。無病息災、安産子育、無事成長、開運出世の守護神です。(境内掲示より)


足利富士女浅間神社所蔵の文化財

  • 初山ペタンコ祭り(足利市重要文化財)

浅間神社のペタンコ祭

毎年六月一日は、昔から足利富士浅間神社の山開きです。この一年の間に生まれた赤ちゃんの初めてのお参りで、神前にて神社の御朱印を額に押していただき、無病息災、無事成長を祈願する棟札です。額に御朱印をペタンと押すことからペタンコ祭の名で知られています。今からおよそ三〇〇年くらい前から始められたと言われています。
神社の境内には、江戸時代の石碑があり多数の信徒の名前と行者、先達の名前が残されています。現在、形は変わっても富士講が初山講となって氏子や総代達により受け継がれて、毎年六月一日の富士山の山開き、これにちなむ初山ペタンコ祭を行っています。(足利市教育委員会掲示より)

足利富士女浅間神社の周辺図


参考資料

  • 「栃木県神社誌」