足利富士男浅間神社。市民俗文化財の初山ペタンコ祭、足利富土
足利富士男浅間神社の概要
足利富士男浅間神社は、足利市田中町にある神社です。足利富士男浅間神社は、従五位下足利(藤原)大夫成行が当地を領有、足利築城の砌りに勧請されたと伝えられます。足利長尾氏は当地に富士山城を築城、豊臣秀吉に敗れた長尾氏は滅亡したものの、足利八景の一つ「足利富土」と称され、もう一つの足利富士女浅間神社に対して、当社を男浅間神社、または下の宮に対して上の宮と称されています。初山ペタンコ祭は足利市民俗文化財に指定されています
社号 | 浅間神社 |
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祭神 | 木花咲耶毘売命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | ペタンコ祭6月1日 |
住所 | 足利市田中町230 |
備考 | - |
足利富士男浅間神社の由緒
足利富士男浅間神社は、従五位下足利(藤原)大夫成行が当地を領有、足利築城の砌りに勧請されたと伝えられます。足利長尾氏は当地に富士山城を築城、豊臣秀吉に敗れた長尾氏は滅亡したものの、足利八景の一つ「足利富土」と称され、もう一つの足利富士女浅間神社に対して、当社を男浅間神社、または下の宮に対して上の宮と称されています。
「栃木県神社誌」による足利富士男浅間神社の由緒
浅間神社(旧無格社)
当社は、上浅間神社ともいって天喜年間、藤原秀郷七世の孫、従五位下足利大夫成行上州淵名の郷より移り、足利築城の砌りその念願により勧請したと伝えられている。この地は足利富土として古くから世に知られている。天正年中の戦記である新田老談記または足利古図によると現地は、足利八景の一つに属していたので、市川安左衛門が、ここに大公園を企画し、上下浅間神社の間に「登天橋」を設計した。
明治三十五年渡良瀬川の架橋に次いで、雙峯の間に道路を作り、次いで鉄道をひいたため、上下の連絡全く絶えて、上浅間神社は参道すら失い社殿は荒廃した。
昭和九年六月十四日社殿改築の許可を受け現在の社殿に改築した。(「栃木県神社誌」より)
足利富士男浅間神社所蔵の文化財
- 足利長尾氏富士山城跡(足利市指定文化財)
- 胎内洞穴(足利市指定文化財)
- 初山ペタンコ祭り(足利市重要文化財)
足利長尾氏富士山城跡
足利長尾氏の出城跡です。戦国時代に足利富士山、浅間山、坊主山にわたり山城が構築されておりました。
小田原の北条軍や甲斐の武田軍の備えとして両崖山の本城を守護して来ました。北条軍侵攻の時は、越後の上杉謙信が、足利城や唐沢山城まで援軍を率いて来て居ります。
その後天正十八年(一五九〇年)に秀吉軍に敗れた長尾氏は壊滅し富士山城は廃城となりました。
現在は、本丸跡地や土塁の跡が山林の中に埋もれて居ります。(足利市田中町観光協会掲示より)
胎内洞穴
北東端岩盤の岩陰には、岩穴を掘削し、文殊菩薩が祀られています。
現在、富士山の北に連なる浅間神社では浅間大菩薩の木花咲耶毘賣命が出現されたという伝承から、体内洞穴といわれています。(足利市田中町観光協会掲示より)
足利富士男浅間神社の周辺図
参考資料
- 「栃木県神社誌」