總社八雲神社。足利市緑町の神社

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總社八雲神社。森高千里の「渡良瀬橋」に登場する社

總社八雲神社の概要

總社八雲神社は、足利市緑町にある神社です。總社八雲神社は、清和天皇が京都の八坂神社・愛知の津島神社・足利の八雲神社を勅願所と定めて、貞観年間(859-877)に創建したと伝えられます。足利氏の祖源義国が足利荘に下向の際、当社を足利郡・梁田郡六十六郷(百六十三神社)の総鎮守と定めたといいます。明治42年足利市本城三丁目無格社愛宕神社を合併、大正11年には神僕幣帛料供進神社に指定されていました。平成24年火災により焼失したものの、伊勢神宮から「月讀荒御魂宮」の本殿・幣殿一式と瀧原宮の一部を譲与され、平成29年再建しています。森高千里の「渡良瀬橋」に登場する八雲神社です。

總社八雲神社
總社八雲神社の概要
社号 八雲神社
祭神 素佐之男命
相殿 大己貴命、少彦名命、火具土命、月讀尊
境内社 機神神社、天神社、琴平社、産泰神社、三峯神社、稲荷神社
祭日 例祭7月21日
住所 足利市緑町1-3776
備考 -



總社八雲神社の由緒

總社八雲神社は、清和天皇が京都の八坂神社・愛知の津島神社・足利の八雲神社を勅願所と定めて、貞観年間(859-877)に創建したと伝えられます。足利氏の祖源義国が足利荘に下向の際、当社を足利郡・梁田郡六十六郷(百六十三神社)の総鎮守と定めたといいます。明治42年足利市本城三丁目無格社愛宕神社を合併、大正11年には神僕幣帛料供進神社に指定されていました。平成24年火災により焼失したものの、伊勢神宮から「月讀荒御魂宮」の本殿・幣殿一式と瀧原宮の一部を譲与され、平成29年再建しています。

「栃木県神社誌」による總社八雲神社の由緒

八雲神社(旧指定村社)
古記によると、日本武尊が東征の途中、出雲大社の御祭神を勧請と伝えられている。清和天皇貞観十一年疫病が流行し、右大臣藤原基経卿に詔命して京都、津島、足利(当社)の日本三所に勅願された。その後、一条天皇の寛仁四年六月より治承三年六月まで天王神事の節、京より礼幣使が御下向になり、下野天王の惣社と定められた。それ以来、明治四年神社々格制の布告があるまでは、總社として、足利郡、梁田郡、二郡六十六郷の惣鎮守たる格式を備えていた。(二郡檀廻帳村々名主連判がある)東山天皇元禄八年には本殿と拝殿との間の社地より十七貫四百匁目の古銭が掘り出され、時の領主、従四位下笠間侍従本庄兼因幡守藤原朝臣宗資が、これを瑞祥と喜こび五面の鏡に鋳させ、当社伊勢大神宮、鹿島大神宮、若宮八幡宮(山城国)護国寺観音堂(江戸)の五社に奉献し、当時の通用金十七貫、四百匁目を当社に納められた。明治四十二年六月二十八日足利市本城三丁目無格社愛宕神社を合併し、大正十一年七月八日、神僕幣帛料供進神社に指定された。(「栃木県神社誌」より)

總社八雲神社栞による總社八雲神社の由緒

八六九年(貞観十一年)清和天皇は、京都の八坂神社、愛知の津島神社、足利の八雲神社を勅願所と定めて疫病退散、国家安泰を祈らせました。
源頼義・八幡太郎源義家は「前九年の役」・「後三年の役」に際し、当社で戦勝を祈願されました。
一〇八四年(応徳元年)足利氏の祖、源義国(義家の子)が足利荘に下向の際に、当社に御太刀を寄進し、足利郡・梁田郡六十六郷(百六十三神社)の総鎮守と定めました。
一六九五年(元禄八年)に社殿改築のおり、本殿と拝殿の間の地中より十七貫四〇〇匁目の奈良・平安時代の古銭が大量に発見されました。時の領主、本庄因幡守藤原宗賢は吉祥と喜び、古銭から五面の神鏡「牛頭天王神鏡」を鋳造させました。伊勢大神宮・鹿島大神宮・京都若宮八幡宮・江戸護国寺に奉献し、残る一つが東国第一祈願所の八雲神社に伝わり、「日本五鏡」と称されています。(市指定文化財・平成二十四年の火災により焼失)
一八七七年(明治十年)、渡良瀬川の氾濫を避けるため、天神社境内(現在地)に遷座し、一八八九年(明治二十二年)には社殿が改築されました。
一九八九年(平成元年)に天皇御即位記念として十年の歳月を掛け改築されましたが、二〇一二年(平成二十四年)十二月九日焼失してしまいました。
八雲神社再建にあたり、伊勢神宮(三重県)の式年遷宮年(平成二十五年・第六十二回)のおり、「月讀荒御魂宮」の本殿・幣殿一式と瀧原宮の一部を譲与するという、大変なご縁をいただきました。御社をそのまま譲り受け、移築されることは極めて稀なことで、新たに月讀荒御魂宮が合祀されました。
二〇一七年(平成二十九年)十二月九日、十日の二日間、焼失から五年を経過して、復元された新社殿の竣工式が行われました。(總社八雲神社栞より)

足利ロータリークラブ掲示による總社八雲神社の由緒

佐野唐沢山城主、藤原村雄(秀郷の父)が夢のお告げにより、貞観年間(859-876)に創建したと伝えられています。
また、「栃木県神社誌」によれば、清和天皇の貞観11年(869)右大臣藤原基経が、当緑町に上社、通5丁目に下社を勅願所として創建したといわれています。
平将門の乱に平定祈願成就により、足利、梁田両郡の總鎮守となり、牛頭天王と呼ばれ広く崇敬を集め、朝廷や下野大據からの参拝も行われたと伝えられます。境内に宝幢寺や本町薬師もあったようです。(足利ロータリークラブ掲示より)


總社八雲神社の周辺図


参考資料

  • 「栃木県神社誌」