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赤塚諏訪神社|板橋区大門の神社、田遊び

赤塚諏訪神社の概要

赤塚諏訪神社は、板橋区大門にある諏訪神社です。赤塚諏訪神社は、赤塚の領主千葉介自胤が、長禄年間(1457-60)に信濃国の諏訪大社を勧請して武運長久を祈願したと伝えられます。寛永7年(1630)には十羅刹女を併せ祀り、十羅刹諏訪合社として、下赤塚村の鎮守社だったといいます。明治7年村社に列格しました。当社の田遊びは、徳丸北野神社と共に国の重要無形民俗文化財に指定されています。

赤塚諏訪神社
赤塚諏訪神社の概要
社号 赤塚諏訪神社
祭神 建御名方神
相殿 -
境内社 大国神社、稲荷神社、薬師神社、秋葉神社、水神宮、赤塚浅間神社
住所 板橋区大門11-1
備考 村社、田遊び



赤塚諏訪神社の由緒

赤塚諏訪神社は、赤塚の領主千葉介自胤が、長禄年間(1457-60)に信濃国の諏訪大社を勧請して武運長久を祈願したと伝えられます。寛永7年(1630)には十羅刹女を併せ祀り、十羅刹諏訪合社として、下赤塚村の鎮守社だったといいます。明治7年村社に列格しました。

新編武蔵風土記稿による赤塚諏訪神社の由緒

(下赤塚村)
十羅刹諏訪合社
村の鎮守なり、常福寺の持、例祭正月十三日の夜田遊の祭禮と號し、村民集り蒔入より苅取まで農業四時のあまを次第になし、いと古雅の祭なり。(新編武蔵風土記稿より)

板橋区教育委員会掲示による赤塚諏訪神社の由緒

諏訪神社と無形文化財「田遊び」
御祭神建御名方神。
創建年代は不詳であるが、赤塚の領主千葉介自胤が、長禄年間(1457-60)に信濃国の諏訪大社を勧請し、武運長久を祈願したと伝えられる。その後寛永7年(1630)頃に十羅刹女を配祀したが、神仏分離の際これを廃した。
江戸時代の江戸名所図会には「田遊び」神事が記載されている。田遊びは、水田耕作にかかわる神事で、年の始めにあたりその年の五穀豊穣と子孫繁栄を祈る「予祝」の祭りである。毎年2月13日(旧暦の正月13日)の夜に行われ、本殿と大鳥居間の朝輿の渡御の後、社殿に設けた「もがり」の中で一年間の農耕行事が所作と唱言によって象徴的に演じられている。
昭和51年に徳丸北野神社の田遊びとともに国の重要無形民俗文化財に指定された。(板橋区教育委員会掲示より)

「いたばしの神社」による赤塚諏訪神社の由緒

鎮座の原由不詳であるが古伝に言う、赤塚の領主千葉介自胤が長禄年聞に、信濃国諏訪大社から其の分霊を勧請し武運長久を祈願したと。其の後寛永七年頃十羅刹女を配祀されたが、神仏分離の際これを廃した。これより前、慶応二年氏子等寄附金を以て本殿を再興し、明治三年別当職真言宗常福寺の手を離れ、榎本清富が神勤申付けられた。旧社格は村社で明治七年四月コ一日に定められた。次いで大正六年三月二十七日幣殿拝殿の工を起し大正八年四月一一十七日に竣工した。(「いたばしの神社」より)

東京都神社名鑑による赤塚諏訪神社の由緒

不詳。古伝に、赤塚領主千葉介自胤長禄年間(一四五七-六〇)信濃国諏訪神社よりその分霊を感情し、武運長久を祈願したものという。その後、寛永七年(一六三〇)ころ、十羅刹女を配祀されたが、神仏分離のさいこれを廃するとともに、社殿廃毀のため慶応二年(一八六六)、本殿を再興し、大正八年幣殿・拝殿落成。なお当神社には『新編武蔵風土記稿』記載の如く「十羅刹諏訪合社村の鎮守なり。例祭正月十三日の夜、田遊び祭礼と号し村民集まり蒔入より苅取まで農行四蒔のさまを次第になし、いと古雅の祭なり」とあり、この祭は享保初年より行われたのは確実で、今もその記録を保存し、少しも変わることなく、祭典を執行している。(東京都神社名鑑より)


赤塚諏訪神社所蔵の文化財

  • 田遊び(国重要無形民俗文化財)

赤塚諏訪神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「いたばしの神社」
  • 東京都神社名鑑