東京大仏乗蓮寺|応永年間創建、北豊島三十三ヶ所霊場
東京大仏乗蓮寺の概要
浄土宗の乗蓮寺は、赤塚山慶学院と号します。乗蓮寺は、応永年間(1394-1428)に了賢無的が山中村(現仲町専称院の地)に開創、安土桃山時代末期に旧中山道沿い仲宿へ移転したといいます。天正19年(1591)には徳川家康より10石の御朱印状を受領、さらに八代将軍吉宗以降は御膳所としても利用されていました。国道17号線の拡張、環状6号線の開設、首都高速道路の建設により、昭和46年から53年にかけて、(板橋氏が居城としていた赤塚城の二の丸に相当する)当地へ移転、東京大仏も昭和52年の建立です。北豊島三十三ヶ所霊場21番札所です。
山号 | 赤塚山 |
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院号 | 慶学院 |
寺号 | 乗蓮寺 |
住所 | 板橋区赤塚5-28-3 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 東京大仏、北豊島三十三ヶ所霊場21番札所 |
東京大仏乗蓮寺の縁起
乗蓮寺は、応永年間(1394-1428)に了賢無的が山中村(現仲町専称院の地)に開創、安土桃山時代末期に旧中山道沿い仲宿へ移転したといいます。天正19年(1591)には徳川家康より10石の御朱印状を受領、さらに八代将軍吉宗以降は御膳所としても利用されていました。国道17号線の拡張、環状6号線の開設、首都高速道路の建設により、昭和46年から53年にかけて、(板橋氏が居城としていた赤塚城の二の丸に相当する)当地へ移転、東京大仏も昭和52年の建立です。
板橋区教育委員会掲示による東京大仏乗蓮寺の縁起
御本尊は阿弥陀如来。浄土宗で赤塚山慶学院と称しています。応永年間(1394-1428)に了賢無的が山中村(現仲町専称院の地)で人々に教化したことに始まり、後に板橋の中宿(現仲宿)に移転したと伝えられています。
天正19年(1591)に徳川家康から10石の朱印地を与えられて以来、代々の将軍から朱印状を与えられました。また寛保3年(1743)に将軍吉宗が鷹狩りの際に雨宿りしたのが縁となり、それ以降将軍家の鷹狩りの小休所や御膳所となりました。
高速道路の建設にともなう国道17号線の拡幅工事により、昭和46年から7年の歳月をかけて現在の地に移転しましたが、その際に転載戦災等の無縁仏の供養や恒久平和を祈願して青銅製の東京大仏が建立されました。
境内には、板橋の領主板橋信濃守忠康の墓や天保飢饉供養塔、藤堂家ゆかりの石像があります。(板橋区教育委員会掲示より)
いたばしの寺院による東京大仏乗蓮寺の縁起
本寺はもと孤雲山慶学院乗蓮寺と称したが、その後慶学山となり現在は赤塚山を山号とする。今より約600年前室町時代の応永年間に了賢無的和尚が当時草深い板橋の一角、山中村に草庵を結び民衆を教化したのが始まりで、後、安土桃山時代の末期に今の旧中山道沿いの仲宿に移転した。天正19年11月徳川家康より10石の朱印地を賜り、代々の将軍がそれを踏襲し、寛保3年(1743)4月7日八代将軍吉宗が鷹狩りの際、雨宿りしたのが縁となって、後、将軍の休息御膳所に指定された。境内の閻魔堂は近隣にその名を知られ多くの信仰を集め、名刹の名を一層高からしめた。今次の大戦中より戦後にかけて、国道17号線の拡張、環状6号線の開設、特に高速道の建設に依り寺域が半減するに至り、現在地旧赤塚城二ノ丸に移転した。昭和46年より7ヶ年の歳月を費して全山の移転が完了した。東京大仏といわれる日本第3位の大仏は昭和52年4月11日に開眼された。(いたばしの寺院より)
新編武蔵風土記稿による東京大仏乗蓮寺の縁起
(下板橋宿)乗蓮寺
浄土宗芝増上寺末、孤雲山慶學院と號す、御朱印寺領十石は天正十九年十一月賜へり、開山英蓮社信譽無的應永十四年三月二十九日寂す、什寶古書等は回禄に逢て烏有となりしと云、墓所に板橋信濃守の石碑あり、本樹院前真宗空山有賢禅定門文禄二癸已年十一月二十一日と刻す、此碑は寛政中再建せしものにて、もとの碑石は側にあれども文字は埋沒せり、此古碑實に板橋家のものなりしや、寺僧も詳にはせすと云、又康永二年の板碑あり、此地の民與左衛門が先祖の碑なりと云、
天神社
渡唐の天神を安ず、
鐘樓。享保十四年鑄造の鐘をかく(新編武蔵風土記稿より)
東京大仏乗蓮寺所蔵の文化財
- 天保飢饉の供養塔(板橋区登録有形文化財)
- 板橋信濃守忠康墓(板橋区登録有形文化財)
- 乗蓮寺文書(板橋区文化財)
- 板説教浄瑠璃五代目若太夫墓(板橋区登録有形文化財)
天保飢饉の供養塔
天保の飢饉は、享保・天明の両飢饉と並び江戸時代三大飢饉の一つに数えられています。天保四年(1833)から同七年にかけて全国的な天候不順による凶作、疫病の流行によって大勢の餓死者や行路病死者(行き倒れ)が出ました。
幕府は、白米や銭を支給するとともに、同八年(1837)には、新宿・品川・千住・板橋の四宿に救助小屋を設けてその救済に務めましたが、亡くなる者はあとを絶ちませんでした。
この供養塔は、当時板橋宿の中宿にあった乗蓮寺の住職撮誉上人が、宿内の死者を寺内に埋葬し、その菩提を弔うために建立したものです。正面と左右の面には、江戸時代中期の高僧祐天上人筆の「南無阿弥陀仏」の名号が、また台座には同八年三月から十一月の間に亡くなった四二三人(男三三三人、女四九人、子供四一人)の戒名が刻まれています。
昭和六十一年度に板橋区の文化財(歴史資料)に登録されました。(板橋区教育委員会掲示より)
板橋信濃守忠康墓(付石灯籠)
板橋氏は、平安末期より豊島郡を支配した武蔵豊島氏の一族であり、その末裔にあたる信濃守忠康は、『寛永諸家系図伝』によると、天正年間(十六世紀末)には、北条氏直に仕えていたといわれています。
忠康の子である忠政は、北条氏滅亡後に徳川家康に仕え、子孫は旗本として幕末まで続きました。また、同じく忠康の子で、忠政の弟である蓮源社本誉利覚は、浄土宗の赤坂浄土寺の住職となっており、その関係から歴代の旗本板橋氏は浄土寺を菩提寺としています。
その中で、文禄二年(一五九三)十一月に二十一日に亡くなった忠康だけは、本貫地である下板橋宿にあった乗蓮寺を菩提寺としています。
寛政四年(一七九二)に、先祖忠康の二百回忌が旗本板橋盛壽・盛種によって乗蓮寺で営まれ、その際に墓石が再建されています。なお、その顛末は、区文化財の「乗蓮寺文書」で確認できます。
なお、墓石の脇にある石灯籠は万延元年(一八六〇)に一三代の板橋政道が奉納したものです。
平成十年度に区登録有形文化財となりました。(板橋区教育委員会掲示より)
東京大仏乗蓮寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 「いたばしの寺院」